飛鳥池工房の経営
飛鳥では、これまでの調査により、大官大寺、紀寺などで工房跡が見つかっている。大官大寺の東回廊の外側に鍛治工房があって、鞴の羽口とともに、鉄素材につけられた木簡も出土している。紀寺では、寺域の片隅に掘られた穴に鍛治や漆関係の多量の遺物が廃棄されていた。いずれも、当該寺院の造営のためだけに設けられた臨時の工房であって、仕事が済めば撤収される点が共通している。各地の古代寺院でごく一般的にみられるありかたである。
これに対して、飛鳥池工房では、鋳物工と鍛治工とガラス工が一筒所で仕事をし、仕上げまでの一貫した作業を行っている。しかも少なくとも十数年をこえる長期にわたって継続して操業をおこなっているなど、これまでに知られなかったタイプの工房といえよう。飛鳥池工房の製品の行先はどこか。
まず、木簡をみると、大伯皇子宮、石川宮、内工などの名がある。大伯皇子宮、石川宮が天皇家にかかわるものであることはいうまでもない。内工は、富の中の工人の意であろうか。
これらは、原料または素材を提供したものの名であり、製品の注文主とみなせよう。各種の荷札木簡の存在も、この工房へもたらされた物資が国家の手を経ていることを示している。飛鳥池工房が公的な機関の需要に応ずる工房であることを意味しよう。意外にも近接する飛鳥寺との関連は見いだせないのである。
ところで、この木簡は、大宝令成立の直前、浄御原令下の時期の様子を窺わせる。しかし、工房自体は、藤原宮の存続期問、おそらく8世紀初めまで操業しているとみられる。
飛鳥池工房は、その立地と、操業年代からみても、藤原京遷都のあとは、藤原宮・京の造営事業に関連して操業した官営の工房のひとつではなかったか。工房の終末が平城京遷都と時期を同じくしていることも偶然ではないであろう。
なお、大宝令の現定によれば、鋳物工、漆工は大蔵省の典鋳司、漆部司、鍛治工は、宮内省の鍛治司に、武器・部具類を造るのは兵部省の造兵司というように、手工業の部門によって管轄が分かれていた。飛鳥では、また、造高市大寺司(673)、造薬師寺司(701)のように、造寺司が任命されている。これらの造寺と飛鳥池工房との関わりも大いに興味がもたれる。この先の調査の進展が楽しみである。
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