鋳物・鍛冶のはじまり
わが国では、弥生時代の始めには、大陸製の青銅器がもたらされていたが、しばらくして、国産もはじまった。銅鐸、銅剣、銅予などは、弥生時代の青鋼器生産を代表するものである。これらは、鋳物の技術によるものであった。鉄もほぼ同し頃、使い始められ、中ごろには、鍛治もはじまった。古墳時代にはいると、彷製の三角縁神獣鏡をはじめ銅鏡の生産も盛んになる。また、古墳時代では、製鉄も確実にはじまっている。古墳時代と言えば、何といっても甲冑や、刀、鏃など大型の鉄製武具・武器類が目だつ。これは、新しく大陸からもたらさたれた進んだ鉄の鍛造(たんぞう)技術によったものであった。鍬先などの各種の農工具の製作にも鉄鍛造の技術が発揮されて、土木工事、荒れ地の開発、水田耕作をはじめとする生産力の向上に役立った。また、さらびやかな馬具類の製作には、すでに、鍍金、打ち出し、透かし彫りなど金工の主要な技術が出そろっている。
飛鳥時代には、そうした枝術を基盤として仏像の製作や寺院装厳具など各種の金具類の生産がさかんになる。
588年、飛鳥寺の造営に際して百済から派遣された寺院建築の枝術者に、寺工2人、瓦博士、4人、画工1人ととも1二錐盤(ろばん)博士1八の名が見える。鋳造(ちゅうぞう)の枝術、特に鋳型(いがた)の製作にこれまでにない高度な枝術を必要としたためと考えられる。
飛鳥に残る青銅の鋳造品では、通称飛鳥大仏、すなわち飛鳥寺の本尊釈迦如来像(609年)、長谷寺の銅板法華説相図(686年または698年)、そして、今興福寺に伝わる旧山田寺仏頭(7世紀来)などがある。発掘品の銅製品では、山田寺の金銅製風招、大官大寺から出土した鋼板に唐草文を透かし彫りした隅木金具などがある。水時計の遣跡である水落造跡の銅のパイプも、銅板を巻いてつくり、錐(ろう)付したものである。
奈良時代には、銅貨幣の鋳造も始まり、正倉院宝物にみられる数々の優品や東大寺大仏に代表される鋳物の技術が発展を遂げている。
しかし、飛鳥池工房での製品は、こうした、豪華なもの、大きなものではなく、主として、比較的小型の製品を作っているのが特徴である。
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