和田廃寺土壇発掘状況
和田廃寺調査地全景
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推古32年(624)に、蘇我馬子が推古天皇に以下のように語ったという。「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり。」蘇我氏は葛城氏と関係が深く、葛城(葛木)を名乗った者もいたようだ。『聖徳太子伝暦』推古天皇29年(621)条には、聖徳太子が造った四天王寺や法隆寺などの9寺院の名を列挙する。なかに葛城寺の名が見られるとともに、この寺を蘇我葛木臣に給うと記される。蘇我葛木臣とは、時代や活躍の様子から蘇我馬子と考えられている。
葛木寺の所在について、『続日本紀』光仁天皇即位前紀の童謡は、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」と記す。桜井の地が、葛城寺の前であるとともに、豊浦寺の西であったことがわかる。問題の葛木寺は豊浦寺の西にあったようだ。
最近になって橿原市和田町の和田廃寺を葛木寺に当てる説が有力となってきた。和田廃寺には大野塚と呼ばれる土壇が残っている。以前はこれを敏達天皇14年(585)に、馬子が大野の丘の北に建てた塔に当てる説が一般的だった。しかし1974・75年に行われた発掘調査によって、6世紀まで遡る寺ではないことがわかり、葛木寺説が浮上した。この調査では、塔跡を始め、飛鳥時代に流れていた川の跡や、掘立柱建物・柵、瓦製土管を用いた暗渠、須恵器
大甕を用いた井戸などが発兄された。塔跡は一辺約12.2mの方形基壇の上に、柱間2.4mの塔が建つ。塔跡の南側では東西方向の築地跡を検出した。出土した瓦の7割を複弁8弁蓮華文軒丸瓦が占める。現在当館常設展で展示中の鴟尾もこの調査での出土品である。調査の結果、一部の瓦は飛鳥時代末にまで遡るものの、塔に使われた瓦は川原寺と同じ時期のものであることがわかった。
延久2年(1070)の興福寺大和国雑役免坪付帳には葛城寺田とあり、この頃には衰徴し田圃となっていたようだ。調査でも鎌倉時代の小規模な掘立柱建物が検出されているが、新しい瓦の出土が無く、早くに寺観を失っていたようだ。
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