蘇我三代

蘇我氏の寺 槻曲精舎


敏達天皇13年(584)9月、鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯臣(さえきのおみ)が、弥勒の石像2体を携えて百済から帰国した。蘇我馬子は、槻曲(つきくま)の宅に仏殿を作って、2体の石像をまつるとともに、鞍部村主司馬達等と池達直氷田(いけべのあだいひた)とを各地に使わし修行者を求めた。求めに応じた高麗人の僧恵便(えべん)と、司馬達等の娘、善信(ぜんしん)尼とその弟子、禅蔵(ぜんぞう)尼・恵善(えぜん)尼を、先の仏殿に招き法会を行った。その折り、司馬達等の食事の上に舎利が現れた。含利は馬子に献上された。翌14年(585)の2月に、大野丘の北に塔を建て、法会を催すとともに、先の舎利を塔の柱の先端に納めた。同じ頃、馬子は石川の宅にも仏殿を設けた。石川精舎である。

これらはいずれも馬子によって建てられた小規模な寺院であった。稲目の建てた向原の寺と同様であろう。この時期にはいまだ物部氏や中臣氏など、反仏教派の勢いも強く、本格的な寺院造営は困難であったようだ。

槻曲精舎は所在地が不明である。石川精舎は橿原市石川町の大歳神社や本明寺の付近とされる。大正7年(1918)には大歳神社周辺から礎石や瓦が発見された。ただ発見された瓦が7世紀後半の川原寺式であったことから、問題も残る。大野丘北塔は、大野丘が甘橿丘を含む西に延びる丘陵のことだとすれば、その北の地は、『元興寺縁起』に言う止由良佐岐の地、豊浦寺のある周辺と考えられよう。吉くは和田廃寺の土壇がこの塔に当てられていたが、発掘調査の結果、以下に述べる葛木寺の跡と推定されるに至った。

豊浦寺周辺での発掘調査
豊浦寺周辺での発掘調査




蘇我氏の時代
第3次調査遺構
第2次調査で明らかとなった版築層は、豊浦寺創建期の礎石建物の基壇で、基壇南辺部の詳細が明らかとなった。この礎石建物は、東西の長さが22mL以上で、凝灰岩の切石の基壇化粧が施される。礎石建物の下層から、石敷を巡らす掘立柱建物と石敷などが発兄された。掘立柱建物は桁行3間以上、梁間3間の高床式南北棟建物で、柱筋から外側0.3〜0.4mに石列を巡らす。建物の周囲は石敷が囲み、飛鳥の諸宮跡との類似を見せる。

礎石建物はこれまでの周辺での調査成果を合わせると、東西30m以上、南北15m以上の規模であることが明らかとなった。他の寺院跡と比較すると、講堂と考えることがふさわしい。1957年の調査で発見されたB地区で雨落溝を伴う二重基壇建物は、この礎石建物の雨落溝から心々距離で約18m離れ、建物主軸の振れも一致している。金堂と推定することができる。今回の調査で礎石建物の基壇造成に先立って掘られた穴から、飛鳥寺と同じ文様の瓦が出土した。南側に位置する金堂がこの瓦を用いて講堂に先立って造営されたことが考えられる。豊浦寺は飛鳥寺造営からさほど時を置かず、7世紀初頭に造営が始まったものと考えられる。礎石建物は、瓦から見て7世紀第二四半期に建設され、奈臭時代以降に雨落溝が整備され、10世紀前半頃、バラス敷が行われ、12世紀頃には廃絶していたと推定される。

礎右建物に先行する掘立柱建物は、建物廃絶後の堆積層が飛鳥I段階の土器のみを含むことから、7世紀初頭に位置づけられる。推古天皇が飛鳥最初の宮として築いた豊浦宮の建物の可能性が高い。『元興寺縁起』の伝えるように、豊浦寺は、豊浦宮の後に造られた寺であることが確認された。



豊浦寺| 槻曲精舎・石川精舎・大野丘北塔| 飛鳥寺| 葛木寺| 百済大寺| 桙削寺| まとめ

蘇我氏の時代| 蘇我氏系図| 蘇我氏の邸宅| 蘇我氏の寺| 蘇我氏の墓| 蘇我氏関連略年表


Expert Data Virtual Museum ASUKA HOME

|年表|索引|地図|

Copyright (c) 1995 ASUKA HISTORICAL MUSEUM All Rights Reserved.
Any request to kakiya@lint.ne.jp
Authoring: Yasuhito Kakiya