木之元廃寺の軒瓦
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これまでの寺は、蘇我氏が中心となって建立した寺である。ここで紹介する百済大寺はそうではない。草創は聖徳太子建立の熊凝村の道場に遡るという。実際の建立は、聖徳太子から後事を託された田村皇子、舒明天皇による。舒明天皇11年(639)に、百済川のほとりに、大宮と大寺を造営し、西の民は大宮を、東の民は大寺を造ったという。
皇極天皇元年(642)7月27日、百済大寺の庭で、請雨のために仏菩薩四天王の像を飾って、大雲経を読む法会が行われた。この折に、蘇我蝦夷は、香炉を手にして法会に加わっている。この時には未た寺観が整っていなかったようだ。白雉元年(650)に、丈六像、脇侍、八部等の36像を表した大繍仏を作り始めたとあり、このころようやく諸堂に仏像を飾ることができるようになったのだろう。ようやく寺が完成した頃には、入鹿はこの世の入ではなくなっていた。周辺の堂塔が整備中であったはずの大化元年(645)、皇極天皇の目の前で、入鹿は暗殺されてしまった。
この百済大寺の跡は、古くから北葛城郡広陵町百済の春日神社境内の三重塔付近に比定されてきた。ただ古い時期の瓦の出土を見ない点と、飛鳥からあまっに離れていることに疑問があった。最近になって香具山西北の木之本廃寺を百済大寺に当てる考えが注目されてきた。この周辺からは舒明天皇13年(641)に発願された山田寺の建設に用いられた瓦と、類似するがわずかに古い様相を留める瓦が出土しており、舒明天皇11年(639)創建の百済大寺の瓦とするにふさわしい。
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