蘇我三代

蘇我三代関連略年表



西暦 月日 記事 出典
宣化2 538 10.12 百済の聖明王が仏像、経論、僧を献じる。 帝・元
(欽明6)

稲目に与え、興隆させる。
欽明13
(21)
552
稲目、群臣と仏像礼拝の可否について論争する。 紀・元
欽明30
(38)
569
年頃

稲目、病む。池辺皇子(用明)と大々王(推古)に、仏を信仰するよう言い残す。

569
稲目、死去
敏達元 572 4. 敏違天皇即位。馬子を大臣とする。

572 5.1 天皇、「高句麗の使人はどこにいるのか」とたずね、馬子「相楽の館にいます」と答える。

572 5.15 「天皇、高麗の上表文を馬子に授ける。王辰爾(おうじんに)が読み解く。
敏達3 574 10.9 馬子を吉備国に派遣し、白猪(しらい)屯倉を拡張、田部を増やす。
敏達4 575 2.1 馬子、帰京し、屯倉について報告する。


3.11か 天皇、皇子と馬子に任那復興に励むよう命じる。
敏達11 582
牟久原殿を桜井道場とする。
敏達13 584
馬子、百済からの仏像2躯を迎え、司馬達等と池辺直氷田を遣わして、高句麗僧恵便を見出す。
達等の娘など3人を尼にする。
馬子、仏殿を邸宅の東に営み、弥勒の石像を安置し、3人の尼を迎えて大会(だいえ)の設斎を行う。ごの時、達等、斎食の上に仏舎利を見つけ、馬子に献上する。
馬子、試みに舎利を砕こうとするが砕げす、また、水に投げると心に願うままに浮き沈みしたため、仏法を深く信じ、修業に励む。
馬子、石川の邸宅に仏殿をつくる。(『元興寺縁起』には583年とある)
紀・元
敏達14 585 2.15 馬子、大野丘の北に塔を建て、大会を設斎する。
達等が以前に感得した舎利を塔の柱頭におさめる。
この時、敏達天皇、仏法破却し、3尼らを捕える。

585 2.24 馬子、病にかかる。天皇の許可を得て、再ぴ仏法を修める。この時から疫病がはやる。

585 3.1 疫病がはやったことにより、物部守屋、中臣勝海、仏法破却を奏し、天皇これを認める。

585 3.30 守屋、仏像、仏殿を焼き、仏像を難波の掘江に棄てる。善信尼らを召喚したため、馬子、これに従い、尼たちをひきわたす。

585 6. 馬子、天皇に奏上して、馬子のみ仏法を修めてもよいという許可を得、3人の尼を返してもらう。
新しく寺を造営し、迎え入れて供養する。
紀・元


585 8.15 敏達天皇崩御、殯宮で誄(しのびごと)をする際、馬子、守屋は互いに罵倒しあう。

585 9.5 用明天皇即位。馬子、もとどおり大臣となる。
用明元 586 5. 馬子、穴穂部皇子が三輪君逆(さかう)を殺そうとしているのを諌めるが、皇子は守屋に斬殺を命じる。
用明2 587 4.2 用明天皇、病のため仏教に帰依せんことを群臣にはかる。守屋はこれに反対し、馬子は詔にしたがうことを主張。守屋は群臣の陰謀を察知し退席して家に人をあつめる。それを聞き、馬子、大伴毘羅夫連に守護してもらう。

587 6.7 馬子、炊屋姫尊(推古)を奉じ、佐伯連丹経手、土師連磐村(いわむら)、的臣真噛に、穴穂部皇子と宅部(やかべ)皇子を殺すように命じる。

587 6.21 善信尼ら百済で、戒法を学ぶことを希望。馬子、百済の調使に、尼の渡航をたのむ。

587 7. 馬子、諸皇子と群臣によびかけ、物部守屋を滅ぼす
この時、馬子、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓う。
聖徳太子と馬子は共に寺の建立地を見定める。
紀・伝補・帝



587 8.2 崇峻天皇即位。馬子もとどおり大臣となる。
崇峻元 588
馬子、善信尼らを百済国使思率首信らに託し、留学させる。

588
樹葉(このは)の家をこわし、法興寺を建立する。

588
大后大々王(推古)、聖徳太子と馬子に、法師寺を作るように命じる。そこで、法師寺の建立地に仮垣、仮僧房を作り、6人の法師たちを住まわせる。また、桜井寺の内に工(たくみ)等が住む建物をつくり、そこで寺木を作らせる。
崇峻3 590 3. 善信尼ら帰国、桜井寺に住む。 帝・紀・元
崇峻5 592 10.10 馬子、崇唆天皇の殺意を知り、天皇暗殺を計画する。

592 10. 法興寺の仏堂と歩廊を造る。

592 11.3 馬子、東漢直駒に、崇峻天皇を殺させる

592 11. 馬子、東漢直駒を殺す
推古元 593 1.15 法興寺の塔の礎石の中に仏舎利をおく。

593 1.16 法興寺の刹の柱を建てる。
推古2 594 2.1 推古天皇、聖徳太子と馬子に三宝の興隆を命じる
推古4 596 11. 法興寺竣工。馬子の子善徳(ぜんとこ)を寺司とする。
慧慈、慧聰、法興寺に住む。
推古11 603 2.4 推古天星、新羅征討の大将軍、来目(くめ)星子が死んだことをきき、聖徳太子と馬子に、新羅征討ができなくなったという。
推古13 605 4.1 推古天皇、聖徳太子・馬子・群臣に詔して、銅(あかがね)、繍の丈六の仏像を作らせる。鞍作鳥を造仏工とする。

605 5. 聖徳太子と馬子、共に仏法興隆につとめ、爵位と十七条の憲法を定める。
推古15 607 2.15 聖徳太子と馬子、百寮を従えて神々を祭り、礼拝する。
推古17 609 4.8 鞍作鳥、丈六仏を完成させる。
丈六の光銘に日く:舒明天皇の時代、百済聖明王が仏教を伝え、蘇我稲目に修業させる。用明天皇、推古天皇、仏教を重んじ、聖徳太子、蘇我馬子に命じて、広めさせる。恵聰、恵慈、善徳を領として元興寺を建立する。推古13年(605)4月8日釈迦丈六像、銅繍2躯と挟侍を造る。高麗大興王、黄金320両を寄進する。推古16年(606)隋の斐世清ら来日。翌年(609)4月6日完成、元興寺に坐す。(『日本書紀』には推古14年(606年)とある)

推古18 610 10.9 馬子、蝦夷、新羅、任那の使人を朝廷に迎える。
推古20 612 1.7 馬子、酒宴の席で、推古天皇と歌を読みかわす。

612 2.20 皇太夫人堅塩媛(舒明の妃)を檜隈大陵(舒明陵)に改葬する。中臣宮地(みやどころ)連鳥麻呂(をまろ)が馬子のことばを誄し、境部摩理勢(まりせ)が氏姓の本について誄する。
推古22 614 8. 馬子、病む。馬子の為に、男女1000人出家。
推古27 619 11.15 聖徳太子、路上の飢人に声をがけ歌を詠む。その死を大いに悲しみ、高大な墓を建設する。これを馬子以下、大夫ら非難する。 (紀)、伝補
推古28 620
聖徳太子と馬子、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部並ぴに公民等の本記をしるす。
推古29 621 12.22か 馬子、政(まつりごと)を輔(たす)け、聖徳太子と共に三宝をうやまい、二諦を紹発する。四天王寺、元興寺、中宮寺、橘寺、蜂岳寺、池後寺、葛木寺をたてる。 伝補・伝暦・帝
推古31 623
新羅が任那を併合。推古天皇、新羅征伐について、馬子と相談する。

623
馬子、新羅から帰国した磐金(いわかね)、倉下(くらじ)に新羅の様子を尋ねる。馬子、新羅征討の行きちがいを悔やむ。
推古32 624 4.3 推古天皇、斧で自分の祖父を殴った僧を罪するにあたり、馬子に相談する。僧尼を統制する僧綱制度をつくる。

624 10.2 馬子、葛城県を乞うが、天星許さず。
推古34 626 5.20 馬子、死去。桃原墓を墓所とする。 伝暦・紀
推古36 628 9. 嗣位(ひつぎのくらい)をめぐって、推古天臭の遺詔を群臣が協議。蝦夷、山背大背大兄皇子を推す境部臣摩理勢を殺し、田村皇子を擁立する。
舒明元 629 1.4 蝦夷と群臣ら、共に、天皇の璽印(みしるし)を田村皇子に献る。
舒明6 634 1.15 豊浦寺、塔建立。 伝暦
舒明8 636 7.1 大派(おおまた)王、官吏の朝参の怠慢を非難。鐘の合図で、卯の刻に出仕、巳の刻に退庁するよう提案。蝦夷これに従わず。
皇極元 642 1.15 皇極天皇即位。蝦夷もとどおり大臣となる。入鹿、国政の権をにきり、父以上の勢いをもつ。

642 2.22 高麗、百済の客を難波の郡で饗応する。皇極天皇蝦夷に詔し、「津守連大海を高麗に、国勝吉士水鶏を百済に、草壁吉士真跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に遣わせ」という。

642 4.10 蝦夷、畝傍の家に百済の翹岐らをよび、対談。良馬1匹と鉄20錠をおくる。

642 7.23 入鹿の従者が白い雀の子を捕える。同し時に蝦夷も白雀を献上される。

642 7.25 旱天がつづき、蝦夷、「寺々で大乗経典を転読するのがよい」と言う。

642 7.27 蝦夷、大寺で読経による雨乞いを行うが効無し。

642 9.3 皇極天皇、蝦夷に、百済大寺造営のため、近江と越の丁(よほろ)を微発するよう命じる。また諸国に船舶を造らせる。

642 9.19 皇極天皇、蝦夷に、飛鳥板蓋宮造営のため、東は遠江、西は安芸に至る諸国より丁を徴発し、国々で用材を伐採するよう命じる。

642 10.15 蘇我蝦夷、蝦夷を家にまねいて饗応する。

642 11.16 天皇、皇子、蝦夷、新嘗の儀を行う。
蝦夷、葛城の高官に祖廟を建て、八侑(やつら)の舞を行う。さらに天下を奪う意のある歌を読む。国中の民を徴発し、大陵(蝦夷の墓)と小陵(入鹿の墓)を造営。上宮の乳部(みぶ)の民を墓所で使役する。
皇極2 643 2. 巫覡(かんなぎ)たち、蝦夷が橋を渡るのを待ちかまえ先を争ってお告げのことばをのべるが、数が多すぎてききとれず。

643 10.6 蝦夷、病で出仕出来ず。ひそかに紫冠を入鹿に授け、大臣の位に擬する。

643 10.12 入鹿、山背大兄王を廃し、古人大兄を天皇に立てようと謀る。

643 11.1 入鹿、巨勢徳太(とこだ)臣、土師娑婆(さば)連を遣わして山背大兄王を襲う。 藤・紀

643 11. 山背大兄王が山中で生きのびていることを知り、入鹿、自ら出陣しようとするが、古人大兄皇子に止められる。

643 11.11 入鹿、山背大兄王を殺す(『上宮聖徳法王帝説』には10月14日とある) 伝補

643 11. 蝦夷、入鹿が山背大兄王を殺したことをきき、怒る。 藤・紀
皇極3 644 3. フクロウが蝦夷の大津の家の倉で子を産む。

644 6.6 剣池に、1本の茎に2つの花をつけた蓮が生ずる。暇夷、蘇我臣が宋えるしるしとし、金泥でそれを描き、法興寺の丈六の仏に献上する。

644 6. 暇夷が橋を渡るのを侍ち巫覡(かんなぎ)たちが神のお告げをのべるが、人数が多すきて聞きとることができない。

644 11. 蝦夷、入鹿、甘檮岡に邸宅を建てる。暇夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよぴ、子供たちを王子(みこ)と呼ぶ。
大化元 645 6.12 中大兄皇子、中臣鎌子と共に、宮中で入鹿を殺害する。 帝、藤、紀

645 6.13 蝦夷、「天皇記」「国記」珍宝に火を放ち自殺する。 帝、藤、紀
白雉2 651 1.5 飛鳥寺の塔の露盤銘を授ける。


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