蘇我氏に関係する寺々を紹介することは、とりもなおさず仏教伝来期の、異国の神々に対する人々の戸惑いと混乱をかえりみることに他ならない。
舒明天皇13年(552)十月、百済聖明王が釈迦如来像l体と仏殿の飾りである幡蓋・経巻をもたらした。聖明王の「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、日本に伝える」とのメッセージも添えられていた。
舒明天皇は「西の国の教えで、末だかつて見たことも聞いたこともない。まつるべきか否か」と群臣に問うた。馬子の先代である稲目は「西方の国々はすべて仏教をまつっており、日本だけが否定することがどうしてできようか。」と積極的に受け入れるよう進言した。
これに対し物部尾輿と中臣鎌子は、「日本では、代々国神をまつってきた。今ここで他国の神をまつれば、国神の怒りをかってしまう」と反対を表明した。群臣の意見対立のなか、「試みに、稲目に仏像をまつらせてみよう」という舒明天皇の裁定によって、稲目のもとに仏像がもたらされた。とりあえず小墾田の邸宅に仏像を安置し、近くの向原の邸宅を改築して寺とした。後の豊浦寺である。ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出た。「異国の神をまつるからだ」と、物部尾輿と中臣鎌子らは仏像を難波の堀江に捨てるとともに、向原の寺を焼いてしまった。いまさら再説する必要もないほど有名な仏教伝来にまつわる逸話である。
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