仏教公伝をめぐる『日本書紀』の記述から、向原にあった稲目の邸宅を寺にしたことが知られる。その後の変転は『元典寺緑起』に詳しい。敏達天皇11年(582)には、向原殿の寺を桜井道場とし、翌12年(583)には司馬達等(しめだちと)の娘、善信尼とその弟子2人を桜井道場に住まわせている。この3人の尼は、崇峻天皇元年〈588)に百済に留学し、崇峻天皇3年〈590)に帰国し、前のように桜井寺(桜井道場)の住持となった。こうして桜井寺という尼寺が整備されると、僧寺の必要性が高まってくる。そこで飛鳥寺建立が発願され、桜井寺の中に現場事務所が崇峻元年に開設される。推古天皇元年(593)には豊浦の宮を寺とし桜井寺の機能を移すことになり、豊浦寺が史上に登場する。『聖徳太子伝略』によれば、舒明天皇6年(634)に豊浦寺の塔の心柱を立てたとある。『万葉集』巻八第1557-1559番は、豊浦寺之尼私房で読まれた宴の歌であることが詞書に記される。
これまで豊浦の周辺では、数次にわたる発掘調査が行われている。1957年に、奈良県教育委員会による調査が行われ、向原寺境内のA地区で、5×4間の中世礎石建物、南のB地区で雨落溝を伴う二重基壇建物の北縁を、塔心礎周辺のC地区では周囲に石敷をめぐらした塔基壇が発見されている。1970年には向原寺本堂の北50mの地点を奈良国立文化財研究所が調査し、石列などが発見された(第1次調査)。1980年には向原寺本堂東側で調査が行われ(第2次調査)、1957年に発見された礎石建物が鎌倉時代初頭再建の床張仏堂であることがわかるとともに、室町時代後半に焼失したことも判明した。この調査で、中世仏堂の下に前身建物の基壇版築層が確認された。第2次調査の成果を受け、前身建物やそれに先行する建物の存在の確認をめさして、現本堂南側で1985年に第3次調査が行われた。この調査で、豊浦寺の講堂想定建物が明らかになるとともに、寺に先行する掘立柱建物の存在も明らかになった。
以下にこの調査の成果を詳しく紹介しておく。
|