桙削(ほこぬき)寺
皇極天皇3年(644)11月条には、翌年の大化改新(乙巳の変)の前史とも言うべき蘇我蝦夷・入鹿父子の事跡を列挙した記述がある。甘橿丘に双屋を建て、城塞のように防備を固めるとともに、兵を集め武器を貯蔵したというものである。この記述の後に、「大丹穂(おおにほ)山に、桙削寺を造らしむ」と言う記述がある。大丹穂山は飛鳥から吉野に抜ける街道の東山中、入谷(にゅうだに)の付近であると言われる。当時の寺院の立地としては異例なほどの山中だ。甘橿丘に邸宅を名目に城塞を築いた蘇我父子のことである。甘橿丘“城”が陥落したときに備えて、吉野への街道沿いに、寺を名乗る山城を造ったのではないかと言われている。この寺については、遺跡など詳しいことはわかっていないが、中世の記録に28坊をを備えていたと有り、ある時期まで山岳寺院としての寺観を維持していたものと考えられる。
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