甘橿丘調査地より飛鳥寺を望む
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舒明天皇13年(552)、百済の聖明王は、釈迦仏の金堂像1躯、幡蓋若干、経論若干巻を舒明天皇に献上する。いわゆる仏教公伝の出来事である。天皇は、稲目にこれを授けて試みに礼拝することを許し、仏像を天皇より拝領した稲目は、跪き受けとってよろこび、これを小墾田の家に安置する。そして、向原の家を浄めて寺とした。我が国にはしめて法灯のともったところである。
「小墾田」の地名は、推古天皇の小墾田宮をはじめとして、壬申の乱の際の「小墾田の兵庫」、また奈良時代にはいると淳仁朝に糒三千斛を「小治田宮」に蓄えたことなど、数多く文献の中に登場する。これまで、この小墾田の地は橿原市和田町にのこる古宮土壇の周辺とされてきた。ところが近年、雷丘の東側の地域の発掘調査が進み、「小治田」と記した墨書土器や、奈良時代の建物群が発見されたことから、小墾田が雷丘よりも東に広がる土地であった可能性が出てきている。
一方、「向原」は、「牟久原」〈『元興寺縁起』〉とも書かれ、現在豊浦寺の跡に残る向原寺もこの名に由来するとされる。明日香村豊浦の付近にあったものとみてよいのであろう。さて、舒明天皇23年(562)8月、高麗に出兵した大伴連狭手彦は、戦利品として七織帳を舒明天皇に、鎧2領、金飾りの大刀2振り、銅鏤鐘3口、五色の旗2竿、美女の媛と従者吾田子を、稲目に贈った。稲目はこの二人を召し入れ、妻として軽の曲殿に住まわせている。「軽」は、現在の橿原市大軽町の付近。『書紀』懿徳天皇2年の条には、「都を軽の地に遷す。是を曲峡宮と謂ふ。」とある。軽には「曲」という土地があったことがわかる。
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