蘇我三代

蘇我氏の墓 崇峻天皇の墓


崇峻天皇は、舒明天皇の十二番目の皇子で、小姉君の子という。用明天皇の死後、崇峻の同母兄穴穂部皇子が物部氏の後押しで皇位につこうとする。馬子は穴穂部皇子を殺し、物部氏を武力で制圧したのちに、弟の泊瀬部皇子をたてて崇峻天皇とする。馬子の娘、河上娘をその妃とするのも当然、計画の内だったに違いあるまい。蘇我氏は勢力を伸ばし、一族の大事業、飛鳥寺の建設も着々と進んでいた。しかし、馬子の権勢を快く思わなかったのか崇峻は、次第に軍備を整え、馬子を殺したいという意思をほのめかすに至る。身の危険を感じたためか、むかっ腹を立てたせいかよくはわからないが、馬子は先手を打つ。崇峻4年(592)11月に東国の調が献納されたと欺いて天皇を誘き出し、配下の東漢直駒に命じて暗殺してしまうのだ。飛鳥寺の金堂・回廊の起工から一月も経たないうちの出来事だった。崇峻の亡骸はその日の内に倉梯岡(くらはしおか)陵に葬られている。事件から数日後には、筑紫に早馬が送られ、国内の混乱があっても外国への備えを疎かにするなという指令がなされている。馬子が、事件前後の情勢を完全に掌握していたことがよくわかる。

崇峻以前の敏達、用明、そしてつぎの推古と蘇我氏全盛期の天皇は、みな河内の磯長谷に葬られている。その死の状況が、暗殺と言う異常なものだったせいだろう、崇峻天皇の遺骸だけは結局、王家の谷に落ち着くことはなかった。

陵墓要覧では奈良県桜井市大宇倉橋字金福寺跡を崇峻倉梯岡陵とする。しかし、古くから同じ倉橋にある赤坂天王山古墳をこの天皇の墓とする意見があり、近年斑鳩の藤の木古墳の発掘以降、その被葬者を崇峻と考える説も出されて、いずれが正しいのか議論は決着を見ていない。この冊子では赤坂天王山古墳を一応、崇峻の墓と考えておくことにしたい。この古墳は一辺が45mという大きな方形の墳丘をもち、全長17mの横穴式石室を備えている。崇峻が殺された日の内に葬られていることを考えると、なぜ都合よくこの地に墓が用意されていたのか腑に落ちないところもあるが、この壮大な方墳が形の上でも規模の点でも、蘇我氏血縁の天皇の墓にふさわしいことも確かだろう。

推古天皇陵
赤坂天王山古墳の石室


赤坂天王山古墳
赤坂天王山古墳(北東から)


推古天皇陵
舒明天皇陵(書陵部紀要第6号より)


欽明天皇陵
舒明天皇陵(南西から)
赤坂天王山古墳の北東、すぐ近くには舒明天皇の押坂(おしさか)陵がある。この古墳は、地勢にあわせた四角い下段の上に、基本的には八角形で、正面に短い一辺を加えた墳丘を持つ。これは天皇家の墓の特徴となる八角形の王墓の最初の例で、その形式は以後の斉明あるいは天武・持統の墳墓へとひきつがれていく。舒明陵以降には、蘇我の墓制ともいうべき方墳の大王墓は造られることがなかった。

この狭い地城に小さな谷を挟んで、馬子の政策の蹉鉄を象徴する崇峻天皇の墓と、蝦夷・入鹿の権力の破綻のはじまりとも見られる舒明天皇の墓が、ひっそりと向かいあっているありさまに、なにか不思議な歴史の暗合とでもいうようなものを感じる人も多いのではないだろうか。



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