蘇我氏は、有力な各豪族、とりわけ天皇家との政略結婚をつうじて権力の基盤を固めようとした。この親戚筋を作って絆を固めようというやり方は、蘇我氏の専売特許でもなんでもなく、古来行われ、いまだに政治家から庶民にいたるまでが好んでとろうとする常套手段なのだろう。
馬子は、推古32年(624)「葛城県は自分の本居なので領地として賜わりたい」と申し出ている。また聖徳太子伝暦には葛木寺を蘇我葛木臣に賜うと記す。馬子の母親は葛城氏の出だったのだろう。また崇峻即位前紀(587)には、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。云々」の記事があって、馬子が物部氏とも姻戚関係を結んでいたことが知られる。
蘇我氏と天皇家とのかかわりを、大ざっばに整理してみれば以下のようになる。欽明朝に初めて、馬子の姉妹、堅塩媛と小姉君の二人が天皇の夫人となっている。欽明のつぎの敏達天皇は、堅塩媛の子供・額田部皇女〈後の推古)を后とした。
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甘橿丘周辺(北西から)
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