ガラス工房[4]
私達は、この間に一服して、日本のガラスの歴史を、ごく大雑把に、おさらいしておくことにしよう。
ガラスの歴史
日本に、始めてガラスが伝わって来たのは、弥生時代のことで、中国、漢のものが輸入されたというのが、定説となっている。
弥生のガラス
須久岡本遺跡を始めとした、北九州の弥生時代の遺跡から見つかっているガラスが、この頃の資料の大部分を占め、これは鉛と石英を主な原料とする鉛ガラスで、特殊な成分としてバリウムを含んでいる。このバリウムを含むというのが、漢代のガラスの特徴で、日本ではこのガラスを素材として管玉や勾玉を作った。
鉛ガラス・アルカリ石灰ガラス
鉛ガラスというのは、ガラスの歴史の上からみると、かなり特殊なものらしい。紀元前2,500年頃、メソポタミヤで発明されたガラスは鉛ガラスではなく、硅酸とアルカリ分と石灰を主成分とするアルカリ石灰ガラスだった。エジプトでもローマでもまたこれをうけついだぺルシャ、ヨーロッパでも、ガラス工業の主流はアルカリ石灰ガラスを使っている。
漢の鉛ガラスが、中国独自の発明品なのか、メソポタミヤに源をもつガラス工業の主流から派生した鉛ガラスが、西方から漢へ伝えられたものか、学者の間で意見が分れている。弥生時代、日本でも例えば登呂遺跡などから、アルカリ石灰ガラスの小玉が出ているが、これも外国からの輸入品であろう。はたして弥生人が、ガラスそのものの作り方を知っていたのかどうかは、よくわからない。ただ福岡市の原遺跡の勾玉の鋳型が示しているように、すでに弥生時代にガラスの加工が日本でおこなわれていたことは間違いない。
古墳時代・コバルト
古墳時代になると、ガラス玉のはとんどがアルカリ石灰ガラスで作られるようになる。そして古墳時代に一番沢山作られたのは、日本では産出しないコバルトで色をつけた、紺色のガラス玉だった。
はたして古墳時代のアルカリ石灰ガラスそのものは、国産品だったのだろうか、それとも素材のガラスは輸入に頼って、加工だけを国内でおこなったのだろうか。岡山県の百間川今田遺跡から見つかった、大量のアルカリ石灰ガラス塊を、ガラス製造工場のものと考えるなら、日本でも弥生時代以来、アルカリ石灰ガラスが作られて来たということになる。しかし奈良時代になって、ほとんどのガラス玉が国産の鉛ガラスから、作られるようになっても、銅で色をつけた青(縹)の玉と国内では産出しないコバルトの紺色の玉の2種類だけには、相変らずアルカリ石灰ガラスが使われている。
高松塚のガラス
又、飛鳥池ガラス工房で、さかんに鉛ガラスが作られていた頃に作られた高松塚古墳では、このコバルトの紺と銅の青との、アルカリ石灰ガラスの玉しか石室に納めていない。墓の主が、おそらくは皇族という格式の高い古墳で、このアルカリ石灰ガラスだけを選んでいるのは、この2つの種類が、特別にめずらしく、高価だった証拠だろう。
このようなことを、考えあわせるともし、これが日本で作られたとしても持別な工房だけが、この作り方を知っているというようなものだったろうし、結局アルカリ石灰ガラスそのものは、日本では生産されることはなかった、という可能性も高いと思われる。
輸入したガラス
また正倉院に残された例が、広く知られている、ガラスのコップや水差しなど、玉に較べればずっと大形の、吹きガラスやカットグラスの飲食品の類は、すべて外国から輸入されたもので、日本では作られることがなかった。
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