ガラス工房[3]
方鉛鉱
さて話を、飛鳥時代の飛鳥池遺跡のガラス工場に、もう一度戻すこととしよう。
この工房跡からは、ガラス坩堝と一緒に、方鉛鉱や石英塊が、かなり見つかっていることは前にも言った。ガラス坩堝の内側を注意深く観察すると、ガラスだけでなく、黒い鉛の粉末が付着しているものもある。また方鉛鉱だけでなく一度熔けてもう一度固った鉛の破片もある。
鉛と石英は奈良時代に主流として作られた鉛ガラスの原料そのもので、この遺跡の坩堝や、ガラス玉鋳型に残っているガラスも、分析してみると鉛ガラスだということがわかる。ここでは、どこか他所で作ったガラス原料を使って、製品を作っていたのではなく、原料からガラスそのものを作る仕事もしていたに違いない。
正倉院のガラス処方
奈良時代の正倉院文書に残されたガラスの処方箋では、鉛を低温で焼いて、酸化鉛(鉛丹)を作ってから、石英(白石)と混ぜて熔かし、ガラスとすると言っている。どうもこの飛鳥時代の工房では、方鉛鉱の鉛分を選別して使うか、あるいは、方鉛鉱をくだき、坩堝に入れて熱して亜鉛分を除くかして、鉛と石英をそのまま、混合して火にかけ、ガラスとしていた可能性が高い。
そういったややこしい問題は、さておくとして、現在のガラス工場で見たとおり、ガラスを作るのは、相当大変な仕事だったろう。質のいいガラスを得るには、1000℃をはるかに超える高い温度が必要になる。高い煙筒をつけた、大規模なかまどを作れば、薪を燃料に出来るが、ここではスペースの点からフイゴを備えた炭の炉が使われていたのだろう。
そして材料を燃やし続けるための大量の炭と人手が要る。石英、鉛などの原料を砕き混ぜ合せ坩堝に入れてから、ガラスが出来あがるまで、フイゴを踏む者、炭を運ぶ者の単調で、あつ苦しい仕事が続くことになる。
|