前漢以来すでに西方への勢力を確立しており、又インド、西域から僧を受け入れていた仏教受容期の中国の人々がこの西域の翼を持つ飛天を知らなかった筈はあるまい。しかし何故か中国の仏教信者や工人達は、翼のある飛天の入国を認めようとしなかった。これはインド本国でも結局は翼を持った飛天が主流とならず、消えていってしまう状況と何かかかわりがあるのだろうか。
中国では初めて仏教が伝えられた漢代以来、盛んに仏典の漢訳が行われ、教義そのものも中国風に解釈する傾向が強かった。飛天についても、これと同様に最初は外国の手本に近いものを製作していたが、次第に自分達の美の規範に合せて中国化していく。だいたい紀元5世紀の中頃までには、中国風の衣を身にまとった優美な飛天の典型が出来上がるようだ。
アメリカのフーリエ美術館に顧凱子の「洛神賦図」という絵が保管されている。顧凱子は4世紀後半から5世紀にかけての画人で、その作品と絵画論は後代に大きな影響を与えてきた。フーリエ美術館の作品も宋代頃の忠実な写本で、このようなものが作られたこと自体いかに、この人が晋代に具体的な形に描きとどめた美の基準が高く評価されていたかを示している証拠とも言えよう。
さて洛神というのは洛水の女神で戦国時代の詩人屈原も「離騒」の中でその美しさをうたい、「楚辞・天間」中に「天帝が翆を下界に遣わしたのは、人々の苦しみを救うためだった、それなのに何故翆は河伯を射ち洛嬪を奪って妻としたと伝えられているのか」と問いかけている、天下に名高い絶世の美人の代表である。
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