飛天
法隆寺金堂の飛天図

法隆寺金堂の外陣廻りには、四方浄上四面と諸菩薩像4面からなる著名な壁画のはか、その上部の供間壁にも山中羅漢図が描かれていたが、それらは昭和大修理が金堂に着手される直前の昭和24年1月26日、いたましくも焼損してしまった。

しかしこれより以前、すでに第二次世界大戦中に解体してあった内陣小壁は、そこに描かれていた飛天図と共に幸いにも焼損を免れ、昭和大修理完成後も金堂内に戻されることなく、「金堂内陣旧壁画20面」として重要文化財に指定の上、別途保存されている。

内陣小壁は諸仏安置の仏壇の上方、通り肘木と格天井の間、内陣柱上部の10区の柱間をさらに東によって二分し、20面の壁画にしつらえている。画面の大きさはおよそ、縦139cm、横71cmを構える。小壁の壁体は他の壁同様、堅牢な壁下地の上に、すさ入りの荒壁から仕上げ壁にいたるまではぼ三層に塗り重ね、さらに、最上層には最も質のよい白土をうすく塗って画面を調えたものと思われる。しかし全体に剥落が進んでおり、壁画がはとんど失われたものも半数以上に及び、その他の壁画の保存状態も必ずしも良好とはいえない。

いま比較的保存状態の良好な東北寄りの数面によって壁画の図様を考察すると、20面すべてほぼ同一の図様を示すが、一部に若干の変更がみられる。その変更は画工の恣意的選択といった程度のものである。各面とも2体の飛天が何れも左手に華盤(供花を持った大皿)らしきものを棒げ、天衣を翻しながら、相前後して斜め右前方に向って滑らかに飛翔する姿勢に描かれる。なお飛天の周辺には数片の雲が流れる。内陣小壁のこのような図様は、合計40体の飛天が金堂の諸仏の頭上を右廻りに供養讃嘆する様を表わしていることになる。

このような同し図様を壁面に描くには念紙の枝法が最通であり、これを用いたことは疑いない。念紙法は原寸大の下絵を作り、その紙の裏に炭粉や弁柄を塗り、これを壁面に当てて下絵に沿って描さ起す転写法である。その作業の後、念紙で印された線に沿って輪郭を配し、以下彩色、描き起しと進められるのが順序である。それにしても天井の直下不安定な足場の上での作業であり、壁面は垂直面なので、決して楽な作業ではなかったはずである。

それにしても、天衣の翻りをはじめ描線には少しの躊躇も認められず、その優れた技倆よりみて、これに参画した画工は金堂壁画を担当した一連の画家達の幾人かであったと思量される。もとより当時の一般的傾向としで幾人かの分業によって作業が進められたことは言うまでもない。

飛天
法隆寺天蓋裏飛天藩書


飛天
川原寺三尊專仏

彩色に関しては、総体に剥落や変色が著しいため、旧状を明らかにすることは困難であるが、外陣の大面壁画と比較すると、色数は少なく、はるかに単純である。

使用されている色料は、赤系の弁柄、緑青、白土、墨を確認しうるほか、黒変する二三の色料の使用を認めるが、科学的調査を経ていないので、顔料名を確定することは出来ない。これら数少ない色料を使用しながら、二体一組の飛天の間で、裳と天衣の色彩を変えるなどの工夫が認められるほか、壁面ごとにも組合せを変えている可能性があるが、剥落著しい現状では一定の法則性を確認しがたい。飛天の肉身にも幾種類かの色分けがされていた形跡がある。暈取りは肉身部分は薄手であるが、裳や天衣では衣褶に従って一つおきに濃暈を施し画面にアクセントを与えている。

それにしても、本図の飛天は、手足の振舞、身のこなし、天衣の流れなど、その何れを見てもごく自然で、少しも無理な姿勢が感じられない。このような写実的表現の成熟度は、玉虫厨子絵の飛天などでは見られないものであり、同様の形式の飛天は同じ法隆寺金堂の焼損壁画のうち阿弥陀浄土を除く三浄土図の上部左右にも描かれている外、西の間の天蓋天井裏に描かれているやや異形の飛天落書があるが、同時代の作例は意外に乏しい。絵画以外に例を求めれば、法隆寺献納宝物中の「金銅潅順幡(大幡)の天蓋部に彫り出されている飛天の中にこの落書に近い形式のものが存在するほか、立体的な作品では川原寺裏山で数多く出土した三尊專仏上部の浮彫の飛天や薬師寺東塔の水煙を飾る飛天に類例が求められる。


敦煌壁画 歴史的位置 唐代女子像

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