蘇我三代

蘇我氏の墓 蝦夷・入鹿の墓


蝦夷の擁立した舒明天皇13年間の治世は、流星、大風、二度にわたる不吉な彗星の出現、日蝕、月による星の蝕、青天の雷といった天変と、境部家の滅亡、相次ぐ遷宮と宮殿の火災、飢饉といった地異のうち続く騒然とした雰囲気のうちに終りを告げる。13年という在位はおそらく、蝦夷の思惑に反してあまりにも短すぎるものだったのだろう。皇太子の成長を待つかたちで舒明の皇后だった宝皇女が即位し、さらに大きな波乱を含んだ皇極朝四年間の幕が開く。

この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。

皇極4年(645)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせた。邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念する。翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまう。その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬って差しつかえないという許可があり、服喪も許されたという。いったい誰が二人を葬ることを許され、喪に服したのだろう。その後、その人たちの身の振り方はどうなったのだろうか。

江戸時代享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから言いならわされてきたことがわかる。

この水泥古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、長さ10.7mほどの横穴式石室をもつ。石室内には玄室に一つ羨道に一つと、二つの石棺が納められている。追葬されたと見られる挨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。この石棺と蓮華文の取り合わせは、飛鳥時代に仏教文化が人々生活のいろいろな場面に浸透していった様子を物語る、一風変わった資料ということができるだろう。石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていない。

水泥古墳の石室
水泥古墳の石室


水泥古墳の石棺
水泥古墳の石棺


水泥古墳
水泥古墳(手前)と水泥塚穴古墳(右上:南東から)


水泥古墳石室
水泥古墳石室


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