石川の支流、飛鳥川に治って二上山の西斜面に刻まれた磯長(しなが)谷は、現在では大販府南河内郡太子町内に位置する。古くから大和と河内を結ぶ主要な街道だった竹内道がここを通っており、推古天皇の頃には和泉堺に通ずる丹比道も開かれる。この交通の要所にあたる谷合いに、渡来人が住み着き耕地の開発をすすめるのは、5世紀もおそくなってのことだとされる。もともと葛城氏の支配下にあったこの山ひだは6世紀にはいって、急速に勢力をのばした蘇我氏の領地となった。そして蘇我本宗家の興隆の続く間、歴代の天皇の墳墓が営まれて、この地は王家の谷と呼ばれるようになる。地上での統治の仕事を終えた大王は、蘇我のふところに永遠の安息所を求めるのだ。王家の谷は、蘇我氏が追い求め一時期は実際に手にした権威・地位の性格をじつに明瞭に物語っているのではないだろうか。
最初に造られたのが、磯長谷の西端にある敏達陵・太子西山古墳で、敏達は前方後円墳に葬られる最後の天皇となった。蘇我氏とのかかわりでいえば、この天皇は額田部皇女、後の推古天皇の夫になる。この繋がりが、墓所を蘇我の領地にもって来るもっともな理由になるかどうかよく分からない。敏達の遺骸が磯長谷に落ち着くのは死後6年を経てからで、母親、石姫の墓に追葬される形だったといわれる。さらに、石姫の墓と用明陵については名称の混乱があって、話はますますややこしくなる。細かな事情はさておき、大臣馬子の強い意思が働いた結果、磯長谷が選ばれたとみるべきだろう。
これに続いて、用明陵・向山古墳、推古陵・高松古墳が営まれる。言うまでもなくこの二人の天皇は堅塩姫と舒明天皇の子供で、馬子の甥・姪にあたる。用明陵は、初めて方形の墳丘をもった王墓ということになる。用明天皇は在位2年(587)に死去まず大和の磐余に葬られ、7年をおいて推古元年(593)に磯長に改葬された。推古天皇もいったん早生した子供・竹田皇子の墓に納められ、後にこの地に移されている。用明・推古の巨大な二つの方墳は、馬子の墓とされる石舞台古墳とともに、蘇我氏の墓制の典型といわれる。蘇我氏全盛の間に、この地にはもう一つ王族の墓が造られた。馬子とならんで推古朝を代表する歴史上の人物聖徳太子の廟がそれで、この墓で蘇我系の造墓は終りとなる。聖徳太子は妃とともに、母親の穴穂部間人(はしひと)皇女の横穴式石室に追葬された。間人皇女の母は、堅塩姫の妹小姉君だった。平安時代以来、この墓に入った記録がいくつか残されていて、三つの棺を納めた内部の様子を窺い知ることができる。この古墳は直径50mをこえる壮大な円墳で、堅塩姫媛の子供である用明、推古の二天皇の方墳と違った形を持つ。
蘇我本宗家が滅んだ後に、磯長谷最後の王墓として孝徳天皇の墳墓・上ノ山古墳が造られ、王家の谷は完全にその役目をおえる。この影の薄い天皇の墓は、過ぎ去った一時代の形見とでもいった雰囲気でこの地に残され、蘇我三代の見果てぬ夢を封印しているように思えてならない。
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推古天皇陵(日本の古墳より)
用明天皇陵(南東から)
推古天皇陵(南から)
敏達天皇陵(北西から)
聖徳太子陵(東から)
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