日本書記の記述に従えば、位人臣を極めた一代の雄・馬子は、姪である女帝の治世も終わろうとする推古34年(626)にこの世を去り、飛鳥桃原の地に葬られる。その墓を造るために数年の年月と、蘇我の諸家を結集した力が費やされた。偉大な族長のために王陵にも匹敵するほどの墳墓が営まれたことがわかる。
しかし、強力な続率者を失った蘇我氏の内輪揉めが、この墓造りの最中に表面化してくる。 舒明即位前紀(628)は、その様子を大体このように伝える。「この時、蘇我氏の諸族はすべて集まって、嶋大臣(馬子)のために墓を造営し、その墓所に寝泊りしていた。ここで摩理勢臣は、墓所の小屋を壊して、蘇我の家に帰ってしまい、仕事をしなかった。」ここでいう境部摩理勢臣は、馬子の弟つまり、大臣蘇我蝦夷の叔父にあたるらしい。「蘇我の家」という本来この一族の本拠地に帰ったことからも一族中で高い地位を占めていたことも間違いない。
内紛の直接原因は、跡継ざを決めずに死んだ推古天皇の次期天皇に誰を選ぶかをめぐっての、摩理勢と蝦実との意見の対立だった。摩理勢は聖徳太子の子供である山背皇子を後継者に椎し、蝦夷は敏達天皇直系の孫田村皇子を即位させようとしていた。聖徳太子の母父方の祖母は堅塩媛、母方の祖母は堅塩媛の妹・小姉君となる。さらに馬子の娘を母親に持つその皇子が、蝦夷のお眼鏡に叶わなかったのは何故か一見不思議な気もする。だが、結果的に蝦夷の意思どうり即位した田村皇子、舒明天皇が馬子の娘、蝦夷の姉妹、法堤郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人としたこと。そしてその子供が皇后宝皇女の子供を差し置いて大兄、皇位継承者とされていることを考えれば、ある程度事情ははっきりしてくる。蝦夷が、馬子の政略をそのまま繰り返しそうとしていることは明白だろう。天皇はできるだけ王家の本流から立て、夫人には蘇我氏族の長の直系の女を入れる。大切なのは馬子・蝦夷の血統と天皇との有無をいわせない関わりで、蘇我諸分家との親戚関係はむしろ少ないはうが都合がいい。蘇我一族中での本宗家の優位を守るためには、これ以外の方法はあるまい。この本宗家絶対化の政略に蘇我の諸分家、とくに蝦夷の叔父であり血筋の上でも年齢的にも族長となってもおかしくない境部摩理勢が不満を抱いたとしても当然ではないだろうか。
なにはともあれ、この造墓事業ボイコット事件は境部摩理勢とその息子が一族の反乱者として殺され、一応の決着を見る。馬子の墓は完成され、巨大になりすぎた蘇我氏は内部崩壊の危機をかかえながら、蝦夷の時代を迎えることとなる。
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石舞台古墳平面図 (京大考古学研究報告第14号より)
石舞台古墳と島庄遺跡 (南東から)
石舞台古墳石室
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