多武峯縁起(談山神社蔵)
甘橿丘の家炎上(多武峯縁起 談山神社蔵)
甘橿丘東麓の焼け土層から出土した遺物
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中大兄は、すぐさま法興寺(飛鳥寺)に入り、砦として備えられた。諸々の皇子、諸王、諸卿大夫・臣・連・伴造・国造など皆がこれに従った。人を遣わし入鹿の屍を蝦夷に賜った。
漢直らは族党を総べて集め、甲をつけ武器を持って、蝦夷を助け軍陣を設けようとした。中大兄は、将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)を遣わし、天地開闢以来、はじめから君臣の区別があることを説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は、漢直に語って、「われらは、君太郎(入鹿)のために殺されるだろう。蝦夷大臣も今日明日のうちに殺されることは間違いない。ならば誰のためにむなしく戦って皆が刑をうけるのか」と言い終わって、剣をはずし弓を投げ捨てその場を去った。他の賊徒もまた、これにならって散りぢりに逃げてしまう。
翌13日、蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取っ出して中大兄に献上した。『藤氏家伝』によれぱ、蝦夷はその第にあって自らの命を絶つ。この日、蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることと、死を悼み悲しみ泣くことが許されている。
以上が、蘇我本宗家の滅亡をもたらした、いわゆる「乙巳(いっし)の変」の事件の経遇である。大化改新のプロローグとなったこの出来事に対して、私たちの抱いているイメージは、『多武峯縁起』絵巻に描かれた宙をさまよう入鹿の首と天をつく炎、そして飛鳥寺の傍らに立つ五輪の首塚であろうか。けれども、その実際は不明な事柄も多い。1994年の初夏、記録的な猛暑のなかでおこなわれた甘橿丘東麓の発掘調査は、「乙巳の変」の出来事と「甘橿丘の家」についてひとつの手がかりを与えてくれた。
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