蘇我三代

まとめ まとめ


島庄遺跡 方形池
島庄遺跡 方形池




島庄遺跡の石組み池
島庄遺跡の石組み池




島庄遺跡 石組み池の護岸
島庄遺跡 石組み池の護岸




島庄遺跡出土土器
島庄遺跡出土土器




島庄遺跡出土軒丸瓦
島庄遺跡出土軒丸瓦




石舞台古墳とと島庄遺跡
石舞台古墳とと島庄遺跡
敏達13年(584)9月、百済より鹿深臣が弥勒の石像を、佐伯連が仏像1躯を持ち帰る。馬子は、宅の東に仏殿を作り弥勒の石像を安置し、石川の宅に仏殿をたてる。

最初の「宅」がどの家を指すのかについては、「軽宅」、後述の「槻曲宅(つきくま)」とするなどいくつかの意見があるが、不明と言わざるをえない。

「石川宅」は、河内の石川とする意見もあるが、橿原市石川町の付近とする説も有力である。この仏殿は、のちに石川精舎とよばれ、石川町にある本明寺の地にあたると伝えられている。

ところで、このような仏教と家との密接な関わりに対して、当時の豪族の居宅は、戦いのときには砦ともなった。用明天皇の崩御の直前、用明2年(587)4月、河内の渋川に退いていた物部守屋の言葉を伝え聞いた大伴比羅夫連(おおともひらぶのむらじ)は、手に弓箭・皮楯をとって、槻曲(つきくま)の家にゆき、昼夜をわかたずに馬子を警護する。蘇我・物部戦争前夜の出来事である。

「槻」は、ツキノキあるいはツキとよぴ、ケヤキのことをさす。古代の人々は、槻木のなかでも巨木・老木となったものを、神の宿る依代として信仰の対象とした。『万葉集』には、「天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾世まであらむ隠妻そも」(巻11-2656)という歌がみえる。この軽の社は、いま橿原市西池尻町軽古にある軽樹村坐神社にあたるという。「槻曲の家」は、この社のちかくにあったのであろうか。稲目の「軽の曲殿」を受け継いだものかもしれない。一方、『大和志』に「桃花鳥野(つきの)在、三瀬村」とあり、「築坂」「桃花鳥(つき)坂」は、橿原市鳥屋の付近。いずれにしても「槻曲家」の所在は、軽から見瀬にかけての地域に求めることができようか。

さて、馬子は、「嶋大臣」と呼ばれていた。その名の由来については、『書紀』推古天皇34年の条に「飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ。」とあることからも知ることができる。

この飛鳥川の畔の家は、現在の明日香村島庄にあったとする説が有力である。石舞台古墳の横の坂道を下りてくると、右手の食堂のさきに、他の畦とは方向を違えて田圃の畦が「く」の字形に曲がっているところがある。発掘調査の結果、「池田」とよばれていたこの場所には、一辺が42メートル、深さ2メートルほどの隅丸方形の石組み池があることがわかった。

池の周囲にはさらに幅10メートルの堤がめぐっており、池の岸は、径50センチメートルほどの自然の塊石を、2段から4段に垂直に積み上げていくことにより構築されている。池の底にも塊石が敷き詰められ、水源は池底に設けられた井戸を利用し、木樋によって排水する仕組みになっていたらしい。池の中や周囲からは、7世紀前半の土器・瓦が出土しており、馬子の家にしつらえられた池である可能性をうかがわせる。

ところで、6世紀のはじめ、北魏の世宗宣武帝は、格陽城の北に接して設けられた禁苑「華林園」の大池のなかに蓬莱山を築き、山上に仙人館を建てた。馬子の家の島もこのようなものであったのだろうか。時代はやや下るが、朝鮮半島扶余の百済王宮推定地、官北里遺跡では、方形の蓮池が見つかっている。池の岸は、直方体に近い割石を5・6段垂直に積み上げる。島庄遺跡の池に共通する石積みの手法である。この池の水面に映し出されたのは、馬子が大陸に追い求めた思想と技術、そのものであったのかもしれない。



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