「林」墨書土器
入鹿神社
甘橿丘から畝傍山の東
甘橿丘東麓 出土土器
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皇極3年(644〉11月、蝦夷と入鹿は、甘檮岡の上に家を雙(なら)べ構えた。この家が、蘇我本宗家の終焉の地となる。蝦夷の邸宅は「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の屋敷は「谷の宮門(はざまのみかど)」とよばれた。家の外には城柵をめぐらせ、門の傍らには武器庫が設けられた。門毎に水を蓄えた水槽がひとつと、木釣数十本が置かれ、火災の備えとされていた。そして、常に東国出身の兵士が武器を携えて邸宅の警護にあたっていたという。
さらに、畝傍山の東にも家を構えた。池を掘って城とし、庫を建てて矢を蓄えた。そして、常時五十人の兵士を率い護衛をさせて家を出入りした。これらの人を、健人(ちからひと)として東方(あづま)の償従者(しとべ)といった。諸氏の人々がその門に侍り、これらを名づけて祖子需者(おやこのわらわ)とよんだ。漢直(あやのあたい)らは専らふたつの家の門を警護したとされる。
飛鳥の展望台として有名な甘橿丘には、現在も「エベス谷」の地名が残る。入り組んだ西麓の地形は、まさに「谷の宮門」にふさわしいものとされてきた。これまでの居宅に比べて、甘橿丘そして畝傍山東の家をめぐる記述には、ことさら軍事的な側面が強調されている。これら二つの家と同時に、蝦夷は東漢(やまとのあや)氏の長直(ながのあたい)に命じて大升穂山(おおにほやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)をつくらせている。大丹穂山は、明日香村入谷(にゅうだに)。栢森(かやのもり)からさらに東へ入っていったところである。緊張を増す東アジア世界の中で、蘇我氏はこれらの土地に、飛鳥防衛のための砦をつぎつぎとつくっていったのだろうか。1994年、甘橿丘の東麓で小規模な発掘調査がおこなわれた。この結果明らかになった、甘橿丘の邸宅の手がかりについては、次節で詳しく述べることとしよう。
これまでみてきたように、蘇我氏の邸宅は、日常生活の場としてばかりでなく、宗教・政治、軍事・外交といったさまざまな活動の拠点であった。邸宅の営まれた範囲は、曽我川と飛鳥川にはさまれた南北約8キロメートルにおよぶが、交通の要である東西道路の横大路、阿部山田道と南北道路の下ッ道の交差点をその中に取り込んでいる。7世紀前半の大王家の宮はあたかも蘇我氏の懐の内を転々としていたかのようにさえ見える。
にもかかわらず、発掘調査によってその所在の手がかりが得られたのは、わずかに2カ所、島庄遺跡と甘橿丘東麓にすぎない。蘇我氏の居宅の解明は緒についたばかりである。
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