蘇我三代

まとめ まとめ


「嶋大臣」とよばれた馬子に対して、その子蝦夷は「蘇我豊浦蝦夷臣」・「豊浦大臣」とよばれていた。これは、蝦夷が「豊浦」の地に居を構えていたためと考えられている。この豊浦を、蝦夷の母方の里である河内豊浦とする説もあり、他方、『紀氏家牒』は「馬子宿禰男蝦夷宿禰家葛城県豊浦里。故名日豊浦大臣」と伝えている。けれども『書紀』(舒明即位前紀)によれば、山背大兄皇子が叔父の蝦夷の病気を見舞うために、飛鳥に赴いた析りに豊浦寺に入っており、蝦夷の住まいが豊浦寺からさはど離れていない場所にあったことを知ることができる。蝦夷の家は、明日香村豊浦の周辺にあったものと考えてよかろう。なお、前述のように小墾田の範囲が雷丘の東方へ展開する可能性が出てきたことをうけて、小墾田宮跡の一部と推定されていた古宮土壇ちかくの苑池遺構を、蝦夷の豊浦邸のものとする意見も出されている。

豊浦寺
豊浦寺
さて、朝鮮半島の情勢がにわかに緊迫の度を高めた皇極1年〈642)4月10日、蝦夷は畝傍の家に百済の王族翹剋岐(ぎょうき)等を招く。翹岐は、百済義慈王の子で、この年の正月、義慈王の母親が死に、その後の貴族の抗争から日本に亡命していた。さらに10月には、朝廷における饗応につづいて、陸奥の蝦夷を自らの家に招いている。これらのことからは、大臣蝦夷の家が迎賓館としての役割を担っていたこともうかがわれよう。



稲目の家| 馬子の家| 蝦夷の家| 入鹿の家
「乙巳の変」と甘橿丘の家| 甘橿丘東麓の発掘調査

蘇我氏の時代| 蘇我氏系図| 蘇我氏の邸宅| 蘇我氏の寺| 蘇我氏の墓| 蘇我氏関連略年表


Expert Data Virtual Museum ASUKA HOME

|年表|索引|地図|

Copyright (c) 1995 ASUKA HISTORICAL MUSEUM All Rights Reserved.
Any request to kakiya@lint.ne.jp
Authoring: Yasuhito Kakiya