「嶋大臣」とよばれた馬子に対して、その子蝦夷は「蘇我豊浦蝦夷臣」・「豊浦大臣」とよばれていた。これは、蝦夷が「豊浦」の地に居を構えていたためと考えられている。この豊浦を、蝦夷の母方の里である河内豊浦とする説もあり、他方、『紀氏家牒』は「馬子宿禰男蝦夷宿禰家葛城県豊浦里。故名日豊浦大臣」と伝えている。けれども『書紀』(舒明即位前紀)によれば、山背大兄皇子が叔父の蝦夷の病気を見舞うために、飛鳥に赴いた析りに豊浦寺に入っており、蝦夷の住まいが豊浦寺からさはど離れていない場所にあったことを知ることができる。蝦夷の家は、明日香村豊浦の周辺にあったものと考えてよかろう。なお、前述のように小墾田の範囲が雷丘の東方へ展開する可能性が出てきたことをうけて、小墾田宮跡の一部と推定されていた古宮土壇ちかくの苑池遺構を、蝦夷の豊浦邸のものとする意見も出されている。
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