図67 甲寅銘光背
図68 北魏銅造如来
図69 法隆寺灌頂幡
図70 高松塚古墳
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飛鳥最初の宮殿である飛鳥小墾田宮のあった推古朝、飛天は斑鳩法隆寺の金堂釈迦三尊光背の周縁に残る孔によって、その存在が推察される。その根拠は法隆寺献納宝物の金銅製甲寅年(590)銘の光背にとりつく伎楽天群があるからであろう。これは蓮弁形の光青で、本尊を固定し、両脇待を吊り上げる孔があるから三尊用のものである。充背の中央からんィf土振り分(十る客7体づつ言114体の飛天がとりつく、いすれもU字形に腰から下の脚をまげたもので、斜めの顔、合せ衽の上衣と長裙をはく。天衣は上向きに大きく、北魏の飛天を連想させる。
北魏の銅造如来像の光背に、これと酷似した伎楽天が8体とりつく。このような光背が甲寅年銘光背のモデルとなったのであろう。
飛鳥の西南、渡来人東漢氏の氏寺である檜隈寺跡から甲寅年銘光背と同様の光背飛天断片が出土している。
法隆寺献納宝物の金銅製の灌頂幡は全面に横線の雲文が走り、あちこちの雲間に山岳頂部が見える。雲中を飛天が様々なポーズをしながら舞っている。法隆寺玉虫厨子の須弥座背面の密陀絵や高松塚古墳壁画の雲の技法と同じである。
玉虫厨子舎利供養図の雲は霊芝雲の輪郭をアレンジしたもので、天上より斜降しつつある飛天の上半身は裸で裳をつけている。大きな天衣をふわリと降りてくるところである。
聖徳太子の黄泉国を描いた天寿国繍帳で代表されるように、飛天の刺繍の優品が残されている。その一つ、藤田美館術蔵の飛天繍仏は、北魏スタイルの刺繍飛天である。これは片膝を立て、まるで膝行するようである。2条の天衣は、大きく膝にまで巻きつく。同様の素材の飛天は正面を向き蓮台に坐す。天衣はゆったりとする。この形は法隆寺金堂天蓋の木造伎楽天と同じ構図である。童顔をした伎楽天の天衣は唐草文と融合する。
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