法隆寺飛天の源流は大陸、なかんづく中国に求められる。中国では漢代以来神仙系の飛天が活躍したが、やがて西方から仏教系の飛天がもたらされ、南北朝時代を中心に盛んに融合現象を示す。しかし隋唐時代になるとこれまでとは異なる西方系の飛天が新たに導入されて形式は一変する。
敦煌壁画によってこれをみれば、北魏を中心とする南北朝時代は飛天芸術の最も高揚した
時期であり、想像力を駆使した変幻自在な表現が認められる。しかるに、隋唐峙代になるとこれらの表現は影をひそめ、肉身の写実に力点をおく新しい形式へと一転する。しかしながら、このような写実的表現は概して形式の上で画一化をもたらし、唐末には衰退に赴いた。飛天の描かれる場所は、南北朝時代では必ずしも特定せず、窟内上部の要所いたるところに現われるが、隋末から唐代にかけては、一つは伏斗式石窟の藻井部の周辺に、他は浄土変(三尊を含む)の土部左右辺等に集約されて行く。法隆寺金堂の飛天の配置はあたかもこの両者の位置に対応するものとみられる点で、はなはだ興味深い。
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敦煌壁画329窟藻井部(初唐)
敦煌壁画285窟飛天(西魏)
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敦煌壁画392窟飛天(隋末唐初)
敦煌壁画322窟飛天(初唐)
このうち前者については飛天の進行方法が問題となるが、その場合おおむね正面奥壁に位置する仏龕に向って左右から飛来する構成が最もふさわしく、事実その例が少なくないが、単純に一方方向に旋回するものや、もっと不規則なものもあり、必ずしも一定のきまりがあったわけではない。これに対して法隆寺の場合は、念紙を用いて一定方向に旋回する飛天群を表わしたものであろう。
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