法興寺・元輿寺
蘇我馬子の建てた飛烏寺は、7世紀前半の代表的寺院で、当時の仏教文化をよく示している。発掘調査の結果によると、ほぼ束西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の工人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。
舎利容器と木箱
飛鳥寺の塔は1196年(建久7)に焼失し、合利は、翌年いったん掘り出された。そして新しく作った舎利容器を、木箱にいれて、心礎の上方2mのところに埋めた。木箱の側面には、建久7年に塔が焼けたことが記してある。なお、文中に「本元興寺(もとがんごうじ」とある。飛鳥寺が平城京内に移されて元興寺となり、飛鳥に残った寺の方は、本元興寺とよばれるようになった。
飛烏寺の塔の埋納物
593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。古墳が造られる一方で、豪族たちの間に仏教が広まりだしたころのようすが、よく現われている。
埋納物
刀子
馬鈴
桂甲
蛇行状鉄器
砥石状大理石
軒瓦
飛鳥大仏
飛鳥寺中金堂の本尊。609年(推古天皇17年)に、仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が造った。年代のわかる現存の仏像では日本最古のものである。後世の補修が著しいが、面長な顔や、目の形などに法隆寺釈迦三尊に共通した止利式(とりしき)の仏像の特色が現われている。花崗(かこう)岩の台座も当初のもので現在左右に脇侍を立てた“柄穴(ほぞあな)が残っている。法隆寺釈伽三尊にと比ベて数倍する本格的な丈六(じょうろく)像を造った蘇我氏の力がしのばれる。
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