さらに言えぱ、馬子亡きあと蘇我氏の長老の位置にあった境部摩理勢と、本家の甥・蝦夷との相譲れないプライドの問題もあったかもしれない。双方の言い分はどちらにももっともな理屈があり、双方の勢力も拮抗していたのだろう。群臣の意見も二つに分かれて纏まりがつかない。この時ちょうど、蘇我の諸家は共同して馬子の墓を造っていた。摩理勢は墓所の仕事場から引き上げて、本宗家の方針を批判。さらに聖徳太子の一族・上宮王家との連携を強める姿勢をしめす。
族長の蝦夷は、40年前の馬子のひそみに倣って強行手段にうったえ、言うことをきかない境部摩埋勢とその息子たちを殺してしまう。結局、蝦夷が武力にものをいわせて反対派を黙らせた後、田村皇子が即位して舒明天皇となった。舒明の皇后は宝皇女、二人の間の子供に葛城皇子(中大兄)と大海人皇子がいる。馬子の娘・法提郎媛が夫人となり古人皇子(大兄)を生む。
蝦夷は大臣として馬子の地位を継ぎ、本宗家はその方針をつらぬいて権力の座を確保したかのようにみえる。しかし、第一の破局の時と情勢は大きく違っていた。馬子の場合は物部氏を倒すことによって唯一といってもいい対抗勢力を取り除き、蘇我一族の結束を固めることができた。馬子には、口うるさい金持ちの叔父さんたちもおらず、弟たちは兄の力が強くなれぱ自分たちの地位もあがることをよく心得ていた。
蝦夷の場合、境部臣を片付けても対抗者を一掃したことにはならなかった。馬子の兄弟は、既にそれぞれが有力な貴族として一家をなしているのだ。その一つを仇敵のように攻め滅ぼすという強引なやりかたは、一族内に大きな不満と危機感とを残したに違いない。境部を倒した蝦夷の一撃は、蘇我氏のまとまりに深刻なひぴ割れをつくって、馬子の下で一枚岩の結束を誇っていた強大な蘇我の力に分裂のきざしが見えはじめる。
舒明天皇は仮宮とはいえ、一時、田中臣の本拠、田中に宮殿をうつしている。また、舒明の大療に際して、誅をしたのは法提郎媛の子・古人大兄ではなく葛城皇子だったいう。
どうやら、舒明朝を通じて何もかもが蘇我本宗家の思い通りに動いていたわけではないようだ。蘇我氏の内紛と、これを睨んだ王家、他豪族の水面下の動きが渦巻く中で、舒明天皇13年の在位は終わりを告げる。 |