7世紀から8世紀にかけて、中国の風をうけて、「墓誌」を墓のなかに入れることが流行した。死者の名前や生前における地位、経歴などを銅板、銀板、專、骨蔵器などに記したものである。
小野毛人の墓誌
小野毛人(おののえみし)は遣唐使小野妹子の子で、この墓誌によると、毛人は天武天皇に使えて太政官のことを掌り、刑部省の長官を兼ね、677年(天武天皇6年)歿、のち大錦上の位を贈られたことがわかる。この金銅製の墓誌は、小野毛人を土葬した墓(京都市上高野町崇道神社裏山)から1613年(慶弔18年)に出土した。
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小野毛人の 墓誌
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文祢麻呂 金銅の器 骨蔵器 箱 墓誌
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文祢麻呂骨蔵器・墓誌
文祢麻呂(ふみのねまろ)は、壬申の乱(672年)に天武天皇の将軍として活躍した人。707年(慶雲4年)に歿した。墓からみつかった骨蔵器は緑色のガラス製で、金銅の器に入っており、墓誌も銅製の箱に納められていた。
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金銅製球形骨蔵器
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威奈大村骨蔵器
骨蔵器は金銅製球形で、蓋に中国風に整った長文の墓誌銘が刻まれている。それによると大村は持統・文武両朝に仕えた官人で、705年(慶雲4年)46歳で病没し、越後で火葬された後、この遺骨を納めて奈良県北葛城郡香芝市穴虫の丘陵にほうむられたことが知られる。
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