其の十七-仁徳天皇-
仁徳天皇 大雀の命は、難波の高津の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、葛城之曾都毘古の娘の石之日売(いはのひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大江之伊耶本和気(おほえのいざほわけ)の命や。次に墨江の中津王(すみのえのなかつおほきみ)、次に蝮之水歯別(たぢひのみづはわけ)の命で、次に男浅津間若子(をあさつまわくご)の宿禰の命や。 また、上述した日向の諸県の君牛諸(うしもろ)の娘、髪長比売を嫁はんにしてお生みになった子は、波多毘能大郎子(はたびのおほいらつこ)、またの名は大日下(おほくさか)の王や。次に波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)、またの名は長目比売(ながめひめ)の命、そのまたの名は若日下部(わかくさかべ)の命っちゅうんや。 また、異母妹の八田の若郎女を嫁はんにしたんや。で、また異母妹の宇遅能若郎女を嫁はんにしたんやな。この二人には、子供はおらんかった。 あわせてこの大雀の天皇の御子たちは、合計六柱の王やで(男五柱、女一柱)。 この天皇の御世に、皇后の石之日売の命のお名前の記念の部曲(かきべ)として葛城部を定めて、また皇太子の伊耶本和気の命の御名代として壬生部を定めて、また、水歯別の命の御名代として蝮部を定め、また大日下の王の御名代として大日下部を定めて、若日下部の王の御名代として若日下部を定めたんや。 また秦人を使うて茨田の堤と茨田の三宅を作って、また丸邇(わに)の池・依網(よさみ)の池を作り、また、難波の運河を掘って海に通して、また小橋の江を掘って、墨の江の港を定めたんやな。 さて、天皇が高い山に登って四方の国を見ておっしゃるには このために皇居が破れて壊れて、すっかり雨漏りしても、全く修理されへん。器で漏る雨を受けて、漏らへん所へ移って雨を避けたんや。 その大后、石之日売の命は、えらい嫉妬をしたんや。それで天皇のお使いになる妾は宮の中をうかがい見ることもできんで、なにか天皇に言ったりすることがあったら地団駄も踏むくらいにねたんだんやな。 ところで天皇は、吉備の海部(あまべ)の直の娘、名前は黒日売(くろひめ)がべっぴんやと聞いて、召し上げてお使いになったんやな。せやけどその皇后が嫉妬するんを恐がって、故郷の吉備に帰ってしもたんや。天皇は高い殿におって、黒日売の船が出て難波の海に浮かんでるんをはるかに見て、歌われたんや。 沖へには 小船連ららく すると皇后はこの歌を聞いて、えらくお怒りになって、人を難波の大浦に遣わして、〔黒日売を船から〕追い下ろして徒歩で追い返したんや。 そこで天皇は、黒日売を恋しく思われて皇后をだまして言うたんや。 おしてるや 難波の崎よ そのまま淡路島から島づたいに吉備の国に行ってしもたんや。 さて、羹(あつもの)を煮ようとして、山畑の青菜をつむときに、天皇がその乙女の青菜をつむ所にいらっしゃって、歌われたんや。 山がたに 蒔ける菘菜も 天皇が上られるときに、黒日売が歌をたてまつったんや。 倭方に 西風吹き上げて またお歌いになったんや。 倭方に 往くは誰が夫 この事件の後に、皇后が新嘗祭の酒宴をなさろうとして御綱柏〔植物の葉〕を採りに紀伊国へいらっしゃった間に、天皇は八田の若郎女と結婚されたんや。 ここに皇后が御綱柏を船にいっぱい積んで帰られるときに、水取の役所に使われてる吉備の国の児嶋の仕丁〔労働者〕が、自分の国に帰るときに、難波の大渡で〔皇后の船に〕乗り遅れた女の船に会うたんや。仕丁が言うには するとその女は、この話す言葉を聞いたらすぐに皇后の船に追い近づいて、細かいとこまで仕丁の言うとおりに申し上げたんや。 そして皇后は宮にお戻りにならんと、船を綱で引いて〔皇居を〕避けて、堀江をさかのぼって淀川の川筋に従って山代に上られたんや。このときにお歌いになったのは つぎねふや 山代河を そのまま山代をめぐって、奈良山の入り口に到着されて、お歌いになられたんや。 つぎねふや 山代河を こないに歌って、〔山代に〕戻られてしばらく筒木の韓人、名前は奴理能美(ぬりのみ)の家にお入りになったんや。 天皇は、皇后が山代からさかのぼって行かれたとお聞きになって、舎人、名前は鳥山(とりやま)ていう人を遣わして、歌を送っておっしゃったんや。 山代に い及け 鳥山 い及け い及け また、続いて丸邇の臣口子(くちこ)を遣わして、〔天皇が〕歌われたんや。 みもろの その高城なる 大韋古が原 また歌われて つぎねふ 山代女の さて、この口子の臣がこの歌を申し上げる時に、えらく雨が降っとったんや。それで、〔口子が〕雨をよけずに御殿の前の戸に参り伏せたら、〔皇后は〕後ろの戸に出られて、〔口子が〕後ろの戸に平伏したら〔皇后は〕行き違いに前の戸に出られたんや。 そうして〔口子が〕這い進んで来て、庭の中にひざまづいたときに、雨水に腰まで浸かったんや。臣は紅い紐をつけた青摺りの服を着とった。それで雨水が紅い紐に触れて、服の青が全部紅い色に変わってしもた。 ところで口子の臣の妹口日売(くちひめ)は皇后にお仕えしてたんや。それでこの口比売が歌うた。 山代の 筒木の宮に これを聞いて皇后が、そのわけをお尋ねにかったときに、〔口比売が〕答えたんや。 そこで、口子の臣と妹の口比売、奴理能美の三人が相談して、天皇に申し上げて言うたんや。 こないに申し上げるときに、天皇が仰せられたんや。 〔天皇が〕宮からさかのぼって、奴理能美の家にお入りになったとき、その奴理能美は自分が飼うてる三種の虫を皇后に献上したんや。そこで天皇は、皇后のおられる御殿の戸口にお立ちになって歌われたんや。 つぎねふ 山代女の この天皇と皇后がお歌いになった六つの歌は、しつ歌の歌い返しや。 天皇は、八田の若郎女に恋をされて、歌を賜わって遣わされたんや。その歌は 子持たず 立ちか荒れなむ そこで八田の若郎女は答えて歌われたんや。 八田の 一本菅は 一人居りとも それで、八田の若郎女の御名代として八田部を定められたんや。 また、天皇はその弟、速総別の王を仲人にして、異母妹の女鳥の王を嫁はんにほしがったんや。すると女鳥の王は、速総別の王に言うたんやな。 「皇后が強情やさかい、八田の若郎女をちゃんと迎えられてませんやん。せやから、私もお仕えせんとこうと思います。私はあんたの嫁になるわ」 女鳥の わが王の 織ろす服 女鳥の王は答えて歌ったんや。 高行くや 速総別の 御襲料 ここで天皇は、その心中を察して宮中に帰られたんやな。この時に、その夫の速総別の王が来られた時に、嫁はんの女鳥の王が歌ったんや。 雲雀は 天に翔る 天皇は、この歌を聞いてただちに軍をおこして〔二人を〕殺そうとしたんや。そこで、速総別の王・女鳥の王は一緒に逃げて倉椅山に登った。その時速総別の王は歌ったんや。 はしたての 倉椅山を また歌ったんや。 はしたての 倉椅山は そして、そこから逃げのびて宇陀の曽爾に到着したときに、天皇軍が追いついて〔二人を〕殺したんや。その将軍、山部の大楯(おほたて)の連は、その女鳥の王の手に巻かれた腕飾りを取って、自分の嫁はんに与えたんや。 それから後のこと、新嘗祭の後の酒宴をされた時に、各氏の女たちがみんな参内したんやな。そこで大楯の連の嫁はんも、女鳥の王の腕飾りを自分の腕に巻いて参列したんや。 その夫の大楯の連を呼び出して〔皇后が〕 またあるとき、天皇が新嘗祭をしようとして、日女嶋においでになったときに、その嶋に鴈が卵を生んだんや。そこで建内の宿禰の命を召して、歌でもって鴈が卵を生んだ様子を尋ねられたんや。その歌は たまきはる 内の朝臣 そこで建内の宿禰は、歌で答えて申し上げたんや。 高光る 日の御子 このように申し上げて、琴をいただいて歌ったんや。 なが御子や つびに知らむと これは、寿歌の片歌やで。 この御代に、兔寸河の西に一本の高い木があったんや。その木の影は、朝日に当たったら淡路島に及んで、夕日に当たったら高安山を越えたんや。 それで、この木を切って船を作ったところ、ごっつう速よう走る船やった。当時はその船を名づけて枯野っちゅうたんや。 この船が壊れたら材料で塩を焼いて、焼け残った木を取って琴を作ったところ、その音は遠い里まで響いたんや。そこで当時の人が 枯野を 塩に焼き これは、しつ歌の歌い返しや。 この天皇の御年は、八十三歳や。(丁卯の年の八月十五日に亡くなったんやな) |