其の十八-覆中天皇〜允恭天皇-
覆中天皇 子の伊耶本和気の王は、伊波礼の若桜の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、葛城之曾都毘古の娘の葦田の宿禰の娘、名前は黒比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、市辺の忍歯(いちのへのおしは)の王や。次に御馬(みま)の王、次に妹の青海(あをみ)の郎女、またの名は飯豊(いいどよ)の郎女や。 はじめ、〔天皇が〕難波の宮におったときに、新嘗祭で酒宴を催したときに、酒に酔っ払って眠ってしもたんや。そしたらその弟の墨江の中王が天皇を殺したろと思て、火を御殿につけたんや。それで倭の漢の直の祖先の阿知(あち)の直がひそかに連れ出して、馬に乗せて倭に行ったんやな。 こうして、多遅比野に着いて目覚めておっしっゃたんや。 多遅比野に 寝むと知りせば 波邇賦坂に来て、難波の宮を遠望されたところ、その火がやっぱり見えとったんや。そこで天皇はまた歌ったんや。 波邇布坂 わが立ち見れば こうして、大坂の山の入り口に着いたときに、一人の女に出会ったんや。 大坂に 遇ふや女人を こないにして、上って行って石上の神さんの宮にお入りになったんや。 そこへ、同母の弟の水歯別の命が参上して拝謁を申し入れたんや。せやけど天皇が臣下を通じて言うたんは 〔弟が〕答えて また〔天皇が〕臣下を通じて言うたんは そこで〔弟は〕すぐに難波に引き返して、墨江の中王の側近の隼人、名前は曾婆加理(そばかり)をだまして言うたんや。 曾婆加理は答えたんやな。 そこで、ぎょうさんの褒美の品を隼人に与えて、言うたんや。 そこで、曾婆加理は自分の主君が厠に入ったのをこっそりとうかがって、矛でもって刺し殺したんや。 そして〔弟は〕曾婆加理を率いて、倭に上って行くときに、大坂の山の入り口に到着して思ったんや。 「今日はここに留まって、まず大臣の位を授けて、明日上って行こう」 その山の入り口に留まって、すぐに仮宮を造って、急に酒宴をしてその場でその隼人に大臣の位を授けて、多くの役人に拝礼させたんや。隼人は喜んで、願いがかなったと思い込んだんやな。 そうして〔弟は〕その隼人に ここで王子がまず飲んで、隼人が後で飲んだんやな。それで、その隼人が飲むときに大きい椀が顔を隠したんや。そして〔弟は〕席の下に置いた剣を取り出して、隼人の首を斬って、そうして明日上って行ったんやな。 上って倭に到着して言うたんや。 こないにして、中に呼び入れて共に語ったんやで。 天皇は、こないにして阿知の直を初めて蔵の官に任命して、また田所を賜わったんや。 この天皇の御年は、六十四歳や。(壬申の年の正月三日に亡くなったんやな) 弟の水歯別の命は、多治比の柴垣の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇は、身長が九尺二寸半。歯の長さは一寸広さは二分、上下等しく整って、まったく珠を貫いたみたいに見事やった。 天皇が、丸邇の許碁登(わにのこごと)の臣の娘の、名前は都怒(つの)の郎女を嫁はんにしてお生みになった子は、甲斐(かひ)の郎女や。次に都夫良(つぶら)の郎女やな。 また、同じ臣の娘の弟比売を嫁はんにしてお生みになった子は、財(たから)の王、次に多訶弁(たかべ)の郎女や。合わせて四王やな。 この天皇の御年は、六十歳や。(丁の年の七月に亡くなったんやな) 弟の男浅津間若子の宿禰の王は、遠つ飛鳥の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、意富本杼の王の妹の、忍坂の大中津比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、木梨の軽(きなしのかる)の王や。次に長田(をさだ)の大郎女。次に境の墨日子(くろひこ)の王。次に穴穂(あなほ)の命や。次に、軽の大郎女、またの名は衣通(そとほり)の郎女や(名前を布通の王てお呼びするんは、その体の光が布から通り出るからやな)。次に八瓜の白日子(やつりのしろひこ)の王、次に大長谷(おほはつせ)の命や。次に橘の大郎女で、次に酒見(さかみ)の郎女やで。(九柱) 天皇は、はじめ帝位におつきになろうとしたときに、天皇を辞退してお言いになったんや。 このとき、新羅の国王が献上物を載せた船八十一隻を奉ったんやな。そして調物の大使の、名前は金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)ていう者が、深く薬の処方を知っとったんや。それで、天皇の病気を治し申し上げたんやで。 さて、天皇は天下の氏々の人々の氏姓が誤っているのを心配して、甘樫丘の言八十禍津日のさきに盟神探湯(くがたち)の釜を据えて、天下の多くの臣民の氏姓を正しく定められたんや。 また、木梨の軽の太子の御名代として軽部を定めて、大后の御名代として刑部を定めて、大后の妹、田井の中比売の御名代として河部をお定めになったんや。 この天皇の御年は、七十八歳や。(甲午の年の正月十五日に亡くなったんやな) 天皇がお亡くなりになった後、木梨の軽の太子は皇位を継ぐのに定まってたのに、まだ即位せぇへん間に、同母の妹の軽の大郎女に手ぇ出して、お歌いになったんやな。 あしひきの 山田を作り これは、尻上げ歌や。また歌って 笹葉に うつや霰の これは夷振の上歌や。 この事件をもって、官人も天下の人々も軽の太子に背いて、穴穂の御子に心を寄せたんや。それで、軽の太子は恐れて大前小前宿禰(おほまへをまへ)の大臣の家に逃げ込んで、武器を作って備えたんやな。(その時に作った矢は、矢の筒中を銅にしたんや。それで名づけて軽箭ていう) そうして穴穂の御子は軍をおこして大前小前宿禰の家を包囲したんや。そして、その門に到着したときに、氷雨が降ったんやな。それで〔穴穂御子が〕歌ったんや。 大前小前宿禰が 金門かげ そしたら、その大前小前宿禰が手をあげて膝を打って、舞いを舞って歌って来るやんか。歌は 宮人の 足結の小鈴 この歌は宮人振やな。こう歌って参って来て言うんや。 そこで〔穴穂御子〕は軍勢を解いて退いたんやな。こうして、大前小前宿禰が軽の太子を捕らえて、参上して差し出したんや。 あまだむ 軽の嬢子 また歌って あまだむ 軽嬢子 さて、その軽の太子は、伊予の湯に配流されたんやな。また、流されようとしたときに〔太子が〕歌って あまとぶ 鳥も使ひそ この三つの歌は、天田振やな。また歌って 王を 島にはぶらば この歌は夷振の片下やな。その衣通の王(軽大郎女)は歌をたてまつったんや。歌は 夏草の あひねの浜の さて、後に恋しさに耐えられず〔太子を〕追っていかれたときに、〔衣通王〕が歌ったんや。 君がゆき 日長くなりぬ そして追いついたときに、〔太子は衣通王を〕待って歌ったんやな。 こもりくの 泊瀬の山の また〔太子が〕歌われたんや。 こもりくの 泊瀬の河の こう歌って、そのまま一緒に自ら死んでしまわれたんや。 |