其の十六-応神天皇U-

反逆

さて、天皇がお亡くなりになられた後に、大雀の命は天皇の仰せに従って、天下を宇遅能和紀郎子に譲られたんやな。

せやけど、大山守の命は天皇の仰せに背いて、やっぱり天下を取ったろうと思って、弟皇子を殺したろうていう心があって兵士を密かに準備して攻めようとしたんや。
それで大雀の命は、大山守の命が兵を準備しているのを聞いて、すぐに使者を遣わして宇遅能和紀郎子に知らせたんや。

〔宇遅能和紀郎子は〕聞いて驚いて、兵士を河のほとりに潜ませて、またその山の上に絹布の垣を張って幕を立てて、偽って舎人を王に見せかけて、見えるように高い座に座らせて、百官が敬って往来する様子を全く本物の王子の座る所のようにして、さらにその兄王〔大山守〕の河を渡ろうとする時に備えて船と舵を準備して設けて、さね蔓の根を舂いて汁を取って、その船の中のスノコに塗って踏んだら滑るように仕掛けて、当の王子〔和紀郎子〕は布の上衣と袴を着て完全に賤しい人の姿に変装して、舵をとって船に立ったんやな。

一方、その兄王は兵士を隠して伏せておき、服の中に鎧を着て、河のほとりに着いて船に乗ろうとしたときに、その飾り立てたところを遠望して、弟王がそこにいてると思い込んで、全然〔弟が〕舵をとって船に立ってるのに気づかんとそのまま舵取りに尋ねたんや。

「この山に狂暴な大きな猪がいてると噂に聞いてるで。わしはその猪を討ち取ろうと思うんや。その猪を討ち取れるやろか」
舵取りは答えたんや。
「できまへんやろ」
また尋ねたんや。
「なんでやねん」
〔弟王は〕答えて
「何べんもあちこちで討ち取ろうとしたんですけど、駄目でした。こないなわけで、できへんやろと申しました」

河の中ほどに渡ってきたときに、〔弟王は〕その船を傾けさせて、水の中へ〔兄王を〕落し入れたんや。そしたらまもなく浮き出てきて、水の流れのままに下っていったんや。そのまま流れもて、歌ったんや。

ちはやぶる 宇治の渡に
棹取りに 速けむ人し わがもこに来む

このとき、河のほとりに潜んで隠れとった〔弟王の〕兵士があちこちからいっせいに姿を現して、矢を番えたままで流したんや。それで訶和羅(かわら)の先にきて沈んだや。それで、鉤で沈んだところを探ったら、服の中の鎧にかかってからからて鳴ったんやな。それでそこを名づけて訶和羅の岬ていうんや。

さて、その死骸を引っ掛けて上げたときに、弟王が歌われたんや。

ちはやひと 宇治の渡に
渡り手に 立てる梓弓檀
い伐らむと 心は思へど
い取らむと 心は思へど
本方は 君を思ひ出
末方は 妹を思ひ出
いらけなく そこに思ひ出
かなしけく ここに思ひ出
い伐らずそ来る 梓弓檀

そこで、その大山守の命の死骸は、那良山に葬ったんや。この大山守の命は(土形の君・幣岐の君・榛原の君等の祖先や)


宇遅能和紀郎子

そうして、大雀の命と宇遅能和紀郎子との二柱が、お互いに皇位を譲りおうてる間に、海人が食料を奉ったんやな。せやけど、兄は辞退して弟に奉らせるし、弟は辞退して兄に献上させるしで、譲りおうてる間にすっかり日にちが経ってしもた。こないにして譲り合うことが一度や二度とちごたんで、海人は往来するんに疲れて泣いてしもた。

それで、ことわざに「海人なれや、なが物から泣く」ていうんやな。

そうして、宇遅能和紀郎子は早くに亡くなられたんんや。それで大雀の命が、天下をお治めになったんや。


天之日矛

また昔、新羅の国王の子がおった。名前は天之日矛ていう。この人が渡来してきたんや。
渡来してきたわけはこうや。

新羅の国に、一つの沼があったんや。名前は阿具奴摩ていう。この沼の辺りに、ある賤しい女が昼寝しとったんや。そこへ日の輝きが虹のように、その陰部を射したんや。
また、ある一人の賤しい男がおった。その様子を不思議に思て、常にその女の有様を伺ってたんやな。するとこの女は、その昼寝しとった時から妊娠して、赤い玉を生んだんや。
そこで、その伺ってた賤しい男は、その玉を頼んでもらってきて、いっつも包んで腰につけとったんや。

この男は、田んぼを谷の間に作っとった。それで、耕す人達の食料を一頭の牛の背中にのせて谷の中に入るのに、あの国王の子、天之日矛に偶然に出会うたんや。そして〔天之日矛が〕その男に尋ねて
「なんでお前は食料を牛に背負わせて谷へ入るんやねん。お前は絶対この牛を殺して食うんやろ」
て言うて、すぐにその男を捕らえて牢屋に入れようとしたんや。その男が答えて言うたんや。
「わしは牛を殺そうっちゅうんやありません。ただ、耕作人の食料を運ぶだけです」

せやけど、やっぱり許さへんかったんや。それで〔賤しい男は〕腰の赤い玉の包みをほどいて、その国王の子に贈ったんや。それで、その賤しい男を許して赤い玉を持ってきて、床の上に置いたら美しい乙女に化身したんや。
それで、結婚して正妻にしたんやな。それからはその乙女は、常に様々な美味いもんを用意して、その夫に食べさせたんや。

せやけど、国王の子は心が高慢になって妻をののしるんで、女は
「だいたい、あたしはあんたなんかのヨメになるような女とちゃうんやで。あたしの祖先の国に行くわ」
て言うて、さっそく小船に密かに乗って逃げて渡ってきて、難波にとどまったんや。(これは難波の比売碁曾の神社におられる阿加流比売(あかるひめ)の神さんや)

天之日矛は嫁はんの逃げたことを聞いて、すぐに追って渡ってきて、難波に着こうとする間に、その海峡の神さんはさえぎって難波に入れんかったんや。それで、また戻って但馬の国に停泊したんや。そのままその国にとどまって、多遅摩之俣尾(たぢまのまたを)の娘の前津見(さきつみ)を嫁はんにしてお生みになった子は、多遅摩母呂須玖(たぢまもろすく)や。この子が多遅摩斐泥(たぢまひね)で、この子が多遅摩比那良岐(たぢまひならき)や。この子が多遅麻毛理、次に多遅摩比多訶(たぢまひたか)、次に清日子(すがひこ)や。(三柱や)

この清日子、当摩之灯(たぎまのめひ)を嫁はんにしてお生みになった子は、酢鹿之諸男(すがのもろを)や。次に妹、菅竃由良度美(すがくどゆらどみ)や。

さて、上述の多遅摩比多訶が、その姪の由良度美を嫁はんにしてお生みになった子は、葛城之高額比売の命や。(これは息長帯比売の命の親やな)

さて、その天之日矛の持って渡ってきた物は、玉つ宝て言うて、玉が二連や。また、波を起こす領巾・波を鎮める領巾・風を起こす領巾・風を鎮める領巾や。また、沖の鏡・岸辺の鏡で、合計八種やな。(これは伊豆志の八前(いづしのやまへ)の大神さんや)


兄弟神

さて、この神さんの娘、名前は伊豆志袁登売(いづしをとめ)の神さんがおったんや。
ところで多くの神さんが、この伊豆志袁登売を嫁はんにしたいと思たけど、みんな結婚できへんかった。

ここに二柱の神さんがおった。兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひをとこ)て言うて、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)て言うんや。
兄がその弟に言うた。
「わしは伊豆志袁登売を嫁はんに望んだけど、結婚できんかった。お前はこの乙女を得られるか」
〔弟は〕答えて
「たやすくできるで」
すると兄は
「もしお前がこの乙女を得ることがあったら、わしは上下の着物を脱いで、身長を計って同じ高さの甕に酒を醸造して、また山や河の産物をことごとく準備して、賭けたるで」
と、こう言うたんや。

それで、弟は兄が言うたように詳細にその母親に言うたら、母は藤の蔓を取って、一晩のうちに上衣と袴、また靴下と靴まで織って縫いあげ、また弓矢を作って、〔弟に〕その衣服を着せて、弓矢を持たせてその乙女の家に行かせたら、その衣服と弓矢はすっかり藤の花に変わったんや。

春山之霞壮夫は、その弓矢を乙女のトイレに掛けたんや。そうして、伊豆志袁登売がその花を不思議に思って持ってくるときに、後について乙女の部屋に入ったとたんに結婚したんや。こうして、一人の子供を生んだんや。
そうして兄に言うたんやな。
「わしは伊豆志袁登売を手に入れたで」

そしたら兄は、弟が結婚したことに胸が塞がってしもて、例の賭けの物を償わんかったんや。それで〔弟が〕嘆いて母親に言うたときに、母親は答えたんやな。
「私たちの世の事は、神の仕業に習うもんや。せやけど、現世の人間の仕業を見習ったんか、〔兄は〕その賭けの物を償わへん」

〔母は〕兄を恨んで、すぐにその伊豆志河の川の島の一節竹を取って、目の荒い籠を作って、河の石を取って塩にまぜて、その竹の葉に包んで〔弟に〕呪詛させたんや。
「この竹の葉が青々と茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせぇ。また、この塩の満ちたり乾いたりするように、満ち乾きせぇ」

こう呪詛させて、かまどの上に置いたんや。
このために、その兄は八年もの間、ひからびて病気になったんや。それで、兄は嘆き泣いて母親に言うて、その呪いを弟に解かせたんやな。すると兄の体は元どおり健康になったんや。(これは、神かけての賭けの言葉のもとや)


系譜

また、この品陀の天皇〔応神天皇〕の子の若野毛二俣の王が、その母の妹、百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、亦の名は弟日売真若比売(おとひめまわかひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大郎子(おほいらつこ)、亦の名は意富々杼(おほほど)の王や。次に忍坂之大中津比売(おさかのおほなかつひめ)の命、次に田井之中比売(たゐのなかひめ)、次に田宮之中比売(たみやのなかひめ)、次に藤原之琴節(ふぢはらのことふし)の郎女や。次に取売(とりめ)の王、次に沙禰(さね)の王や。(七柱)

そして、意富々杼の王は(三国の君・波多の君・息長の坂の君・酒人の君・山道の君・筑紫の米多の君・布勢の君等の祖先や)

また、根鳥の王が異母妹の三腹の郎女を嫁はんにしてお生みになった子は、中日子(なかつひこ)の王で、次に伊和島(いわじま)の王や。(二柱)

また、堅石(かたしは)の王の子は久奴(くぬ)の王や。

数え合わせたら、この品陀の天皇の御年は、百三十歳や。(甲午の年の九月九日に亡くなったんやな)
御陵は河内の恵我の裳伏の岡にある。


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