其の十一-垂仁天皇-

垂仁天皇

伊玖米入日子伊沙知の命は、師木の玉垣の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、沙本毘古の命の妹の佐波遅比売の命(沙本毘売)を嫁はんにしてお生みになった子は、品牟都和気(ほむつわけ)の命や。

また、旦波の比古多々須美知の宇斯の王の娘、氷羽州比売(ひばすひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、印色之入日子(いにしきのいりひこ)の命や。次に大帯日子淤斯呂和気(おほたらしひこおしろわけ)の命や。次に、大中津日子(おほなかつひこ)の命、次に倭比売(やまとひめ)の命で、次に若木入日子(わかきいりひこ)の命やな。

また、その氷羽州比売の命の妹、沼羽田之入毘売(ぬばたのいりびめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、沼帯別(ぬたらしわけ)の命や。次に伊賀帯日子(いがたらしひこ)の命やな。

また、その沼羽田之入日売の命の妹、阿耶美能伊理毘売(あざみのいりびめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、伊許婆夜和気(いこばやわけ)の命で、次に阿耶美都比売(あざみつひめ)の命や。

また、大筒木垂根の王の娘、迦具夜比売(かぐやひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、袁耶弁(をざべ)の王や。

また、山代の大国之淵(おほくにのふち)の娘、苅羽田刀弁(かりはたとべ)を嫁はんにしてお生みになった子は、落別(おちわけ)の王や。次に、五十日帯日子(いかたらしひこ)の王。次に伊登志別(いとしわけ)の王やで。

また、その大国之淵の娘、弟苅羽田刀弁(おとかりはたとべ)を嫁はんにしてお生みになった子は、石衝別(いはつくわけ)の王や。次は石衝毘売(いはつくびめ)の命や。そのまたの名は、布多遅能伊理毘売(ふたぢのいりびめ)の命や。

数え合わせて、この垂仁天皇の御子たちは十六柱やねん。

さて、大帯日子淤斯呂和気の命は、天下をお治めになったんや。身の丈は一丈二寸、脛の長さ(ひざから下、足首より上)は四尺一寸あったんや。

次に、印色之入日子の命はは血沼の池を作って、また狭山の池を作って、日下の高津の池を作ったんや。また鳥取の河上の宮においでになって、太刀一千振りをお作りになって、これを石神の神宮に奉納して、そして河上の宮におられて、河上部をお定めになったんやな。

次に、大中津日子の命は、山の辺の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張の国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟礼の別等の祖先や。

次に、倭比売の命は、伊勢神宮を拝しお祭りになったんや。

次に、伊許婆夜和気の王は、沙本の穴太部の祖先や。
次に、阿耶美都比売の命は稲瀬毘古の王に嫁がれたんやで。
次に、落別の王は小月の山の君、三川の衣の君の祖先や。
次に、五十日帯日子の王は、春日の山の君、高志の池の君、春日部の君の祖先や。
次に、伊登志和気の王は、子供がおらんので、子の代わりとして伊登志部を定めたんや。
次に、石衝別の王は、羽咋の君、三尾の君の祖先なんや。
次に、布多遅能伊理毘売の命は、倭建の命の嫁はんになったんや。


沙本毘古の反逆

この垂仁天皇が、沙本毘売を皇后とされたときに、沙本毘売の命の兄(同母兄)、沙本毘古の王が妹に尋ねたんや。

「だんなと俺と、どっちが好きなんや」
「お兄ちゃんが好きやねん」
て妹は答えたんや。

そこで沙本毘古の王が企んで言うたんや。
「おまえがほんまに俺を好きやて思うんやったら、俺とおまえとで天下を治めようや」
こう言うてすぐに、鋭い、紐のついた小刀を作って妹に授けて言うた。
「この小刀で、天皇の寝てるところを刺し殺すんや」

さて、天皇はその陰謀を知らずにいて、その后の膝を枕にしてお眠りになったんや。そこで、后は紐小刀で天皇の首を刺そうとして何回も振り上げたんやけど、哀しい心情に耐えかねて、首を刺すことはできへんで、泣いた涙が天皇の顔に落ちてこぼれたんや。この涙で天皇は驚いて目を覚ましてお起きになって、后に尋ねて言うたんや。

「わしは、不思議な夢を見たで。沙本の方から雨が降ってきて、急にわしの顔にこぼれたんや。また、錦色の小さい蛇が、わしの首にまといついた。こないな夢は、いったい何の前兆やろか」

これを聞いて后は、言いたてることもできへんとお思いになって、そのまんま天皇に申し上げたんや。

「私の兄、沙本毘古の王が私に問いました。『夫と兄とどっちが好きか』て。こうも目の当たりに尋ねるのに耐えられへんで、私は『お兄ちゃんが好きかもしれへん』て答えました。そして私に注文して『俺はお前と一緒に天下を治める、せやから天皇を殺せ』て言うて、鋭い紐小刀を作って、私に渡しました。こういうわけで、首を刺そうと思って何度も振り上げましたが、哀しい情がにわかに起こって、刺すことができへんで、泣く涙が顔に落ちてあふれたんです。(夢は)この前兆ですやろ」


御子の誕生

これを聞かれて天皇は
「わしは、もうちょいでだまされるとこやったな」
と仰せになって、ただちに軍をおこして沙本毘古の王を撃とうとしたときに、王は稲の砦を作って迎え撃ったんや。
このときに、沙本毘売の命は兄を思う気持ちに耐えかねて、宮廷の裏門から逃げ出して、兄の砦にお入りになったんや。

このときに、后は身ごもられてたんや。
ここで天皇は后の妊娠してること、またかわいがって大事にしたことが三年にも及んでたので、悲しみに耐えられへんかったんや。それで、軍勢でまわりを取り囲んで、急にはお攻めにならんかった。

こうして停滞してる間に、妊娠してた御子がお生まれになったんや。
それで、后は御子を出して砦の外に置いて、〔使者を遣わして〕天皇に申し上げさせたんや。
「もし、この子を天皇の子やとお思いになるんやったら、引き取ってください」
それで天皇は仰せになったんや。
「その兄貴を恨んでるけど、やっぱりヨメはんのかわいいのに耐えられへんのや」
こうおっしゃったんは、后を取り戻したいていう気持ちがあったからや。

そこで、軍隊の中に力の強い兵士で動作のすばやいものを選り集めて、命令されたんや。
「御子を引き取るときに、同時にその母親も奪い取れ。髪の毛やろうと、手ぇやろうと、どこでもええからつかんで引き出すんや」

一方、その后は前からその〔天皇の〕心をお知りになって、すっかり自分の髪を剃り、その髪で頭を覆い、また、飾り玉の紐を腐らせて三重に手に巻かれて、また、酒で服を腐らせ、完全な服のように身につけておいた。こう準備しておいてその御子を抱いて、砦の外へお差し出しになったんや。

そこで、力の強い兵士達が御子を受け取るとすぐさま、その母親をとらえたんや。ところがその髪をつかんだら、髪は当然のごとく抜け落ち、その手をとると玉の紐は切れ、その服をつかむと服はたちまち破れたんや。それで、御子を奪い取っても母親は奪えんかったんや。

それで、兵士達は帰って報告したんや。
「髪は自然に抜け落ち、衣服はたやすく破れ、また手に巻かれた飾り玉の紐もすぐに切れてしまいました。それで、母親を奪い申し上げられずに、御子だけを奪ってまいりました」

このことで、天皇は残念に思われて、玉を作った人達を憎まれて、すべてその土地を取り上げたんや。それで、ことわざに「地得ぬ玉作り」ていうんや。

また、垂仁天皇がその后に仰せになったんや。
「すべて、子供の名前は母親が名付けるもんや、どないにこの子の名前をつけよか」
そこで答えて申し上げたんや。
「今、稲の砦を焼くときに火の中でお生まれになりました。それで、名前は本牟智和気(ほむちわけ)の御子と申し上げたらええでしょう」

また、仰せになるには
「どないにして、御子をお育てしたらええやろか」
お答えになって
「乳母をつけて、お湯係(養育係)を決めてお育てしたらええでしょう」

それで、后の申し上げたとおりにお育てしたんや。また、后に尋ねて仰せになった。
「お前が結び固めた立派な下紐は、誰が解くんや」
〔后は〕お答え申し上げたんや。
「旦波の比古多々須美知の宇斯の王の娘、名前は兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)、この二人の女王は忠誠な民です。后として使われるのがええでしょう」

こうして、〔天皇が〕ついにその沙本毘古の王を殺したときに、その同母妹の沙本毘売も兄に殉じたんや。


本牟智和気の御子

さて、本牟智和気の御子をお連れして遊ばせる様子は、尾張の相津にあった二股の杉を、二股のまま小舟に作って、〔大和へ〕持ってきて倭の市師の池、軽の池に浮かべて、御子を連れて舟遊びをしたんや。

この御子は、ひげが胸の前に及ぶまで〔大人になるまで〕ものを言わんかった。せやけど、空高く飛んでいく鵠(くくひ=白鳥)の声を聞いて、始めて片言を言うたんや。

それで〔天皇は〕山の辺の大鷹(おほたか)(※1)を遣わせて、その鳥を捕まえさせたんや。
そこで大鷹は、その鵠を追いかけ尋ねて、紀伊国から播磨国に到着して、また追って因幡国に越えて渡って、そこから丹波国、但馬国に到着して、東の方に追いかけて、近江国に着いて、そこから美濃国に越えて、尾張から伝わって信濃国に追いかけて、ついに越国で追いついて、和那美の水門に網をかけて、その鳥を捕まえて〔大和国へ〕持ち上って献上したんや。それで、その水門を名付けて和那美の水門ていうんやで。

また、〔御子が〕その鳥をご覧になったらものを言うやろうと思ったんやけど、期待どおりにものを言うことはなかったんや。

そこで、天皇はご心配になって、寝ているときに〔神さんが〕夢に出てきて教えて告げたんや。
「わしを祭る宮を、天皇の宮殿みたいに修繕したら、御子は必ずものを言うやろう」
と、こう教えたときに、太占(ふとまに)で占いをして、どこの神さんのご意志やろかと求めたところ、御子への祟りは出雲の大国主の神さんのご意志やということがわかったんや。

そこで御子に、その神さんの社を参拝させるために遣わせようとしたときに、誰を添えたらええやろか、と占った。すると曙立の王、と占いに当たったんや。

それで曙立の王に命じて、誓約させて申し上げさせたんや。
「出雲の大神を拝礼することで、ほんまに効果があるんやったら、この鷺巣の池の木に住む鷺よ、この誓約どおり木から落ちよ」
と、こう仰せになったときに、その鷺が地に落ちて死んでしもた。また仰せになって
「誓約どおり生き返れ」
とこのようにすると、再び生き返ったんや。
また、甘樫丘の端の、葉の広い樫の木を誓約どおり枯らし、再び誓約どおり生かしたんや。
そういうわけで、名前を曙立の王に賜わって、倭は師木の登美の豊朝倉の曙立の王、ていうたんや。

そうして、曙立の王・菟上の王の二柱の王を御子に添えて遣わされたときに、奈良山から行ったら足の悪い、目の悪い人に会うやろう、大阪の道からも出会うやろう、ただ、紀伊の道だけはええ道やと占って、そこから出て行くときに、お着きになる所ごとに品遅部の民をお定めになったんや。

こうして、出雲に到着して、出雲の大神を拝み終わって上京されるときに、肥の河の中に黒木の橋を作って仮宮をお造りになってお泊めしたんやな。
そして、出雲の国の造の祖先の、名前は岐比佐都美(きひさつみ)が青葉の山を飾り立てて、その河下に立てて、御食物を献上しようとしたときに、御子が
「この河下の青葉の山のようなものは、山に見えるけど本物の山と違う。もしかしたら、出雲の石くまの曾の宮にご鎮座の、葦原の色許男の大神を奉る祝の祭場とちゃうんか」
と尋ねられたんや。

それを聞いて、お伴に遣わされた王たちは、聞いて喜んで見て喜んで、御子を檳榔(あじまさ)の長穂の宮にお迎えして、急使を献上したんや。

さて、その御子は、一夜、肥長比売(ひながひめ)と共寝をされたんや。そのおりに、その乙女をこっそり覗き見ると、蛇やった。とたんに見て恐れて、お逃げになったんや。
そこで、肥長比売が悲しんで、海を照らして船で追って来たんや。それで、御子はますます見て恐れて、山の鞍部から船を引き運んで〔大和へ〕逃げ上ったんや。

〔お伴の王が〕復命したのには
「大神を礼拝されましたので、御子は口をきかれました。それで、帰ってまいりました」

そこで天皇は喜んで、ただちに菟上の王を〔出雲へ〕返して、神の宮を修繕させられたんや。そして天皇は、その御子にちなんで鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐をお定めになったんやな。


丹波の四女王

また、その后〔沙本毘売〕の申し上げたままに、〔天皇は〕美知能宇斯の王の娘等、比婆須比売の命弟比売の命歌凝比売(うたごりひめ)の命円野比売(まとのひめ)の命の合計四柱のお召し上げになったんや。
ところが、比婆須比売の命・弟比売の命の二柱をとどめて、その妹の二柱はごっつうぶさいくやったから、親元へ返し送ったんや。

そこで、円野比売が恥じて言うたんや。
「同じ姉妹の中で、姿が醜いっちゅうて親元に戻されたことが近所に噂されてしまうわ。これはほんまに恥ずかしい」
て言うて、山代の国の相楽に着いたときに、木の枝に取り懸かかって首をかけて死のうとしたんや。それで、その地を名付けて懸木(さがりき)て言うて、今は相楽ていうんや。
また、弟国についたときに、とうとう険しい淵に堕ちて死んだんや。それで、そこを名付けて堕国て呼んでたけど、今は弟国(乙訓)ていうんや。


時じくのかくの木の実

また、天皇は三宅の連等の祖先、名前は多遅摩毛理(たぢまもり)を常世の国に遣わして、時じくのかくの木の実を捜し求めさせたんや。そこで、多遅摩毛理は、とうとうその国に到着して、その木の実をとって、葉のついたままの多くのもの・串刺しにした多くのものを持って〔大和へ〕持ってきたときに、天皇はすでに崩御されてたんや。

そこで多遅摩毛理は、〔その半分の〕葉のついた実・串刺しの実を皇后に献上して、〔残り半分の〕葉のついた実・串刺しの実を天皇の御陵の入り口に置いて、その木の実を手に持ってささげて叫び泣いて申し上げて
「常世の国の時じくのかくの木の実を持って参上いたしました」
と、ついに叫び泣いて死んでしもた。
その時じくのかくの木の実は、今の橘のことや。

この天皇の御年は、百五十三歳や。御陵は、菅原の御立野の中にあるんや。

また、その皇后比婆須比売の命のときに、石棺作りを定め、また土師部をお定めになったんや。
この后は、狭木の寺間の陵に葬理申し上げたんや。


(※1)大鷹の「鷹」の字は、正確には「帝」へんに「鳥」ですが、辞書にもなく変換できないので同読みの漢字で表記しました

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