其の十-崇神天皇-

崇神天皇

御真木入日子印恵の命は、師木の水垣の宮においでになって、天下をお治めになったんやな。この天皇が、木の国の造で名前は荒河刀弁(あらかはとべ)の娘、遠津年魚目々微比売(とほつあゆめまぐはしひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、豊木入日子(とよきいりひこ)の命や。次に豊鋤入日売(とよすきいりひめ)の命やな。

また、尾張の連の祖先、意富阿麻比売(おほあまひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、大入杵(おほいりき)の命や。次に八坂之入日子(やさかのいりひこ)の命。次に沼名木之入比売(ぬなきのいりひめ)の命。次に十市之入比売(とをちのいりひめ)の命やねん。

また、大毘古の命の娘、御真津比売(みまつひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、伊玖米入日子伊沙知(いくめいりひこいさち)の命や。次に伊耶能真若(いざのまわか)の命や。次に国片比売(くにかたひめ)の命。次に千々都久和比売(ちちつくわひめ)の命。次に伊賀比売(いがひめ)の命や。次に倭日子(やまとひこ)の命やな。

この天皇の御子らは、合計して十二柱や。

それで、伊玖米入日子伊沙知の命は天下をお治めになったんや。
次に豊木入日子の命は、上毛野・下毛野の君等の祖先や。
妹の豊鋤比売の命は、伊勢神宮を祭ったんやで。
大入杵の命は、能登の臣の祖先や。
次に倭日子の命、この王のときに、初めて陵墓に人を立て並べて埋めたんや。


大物主の大神

この天皇の時代に、疫病がぎょうさん起こって人々が死に絶えようとしたんや。それで、天皇がご心配になって、神託を受ける床におった夜に大物主の大神さんが夢に現れて仰せになったんや。

「この病の流行は、わしの意志によるもんや。それでや、意富多々泥古(おほたたねこ)をもってわしを祭らせるようにしたらやな、神のたたりも起こらんと国も平安になるやろな」

この神託で、早馬の急使を四方に遣わして、意富多々泥古っちゅう人を捜し求めたときに、河内の美努の村にその人をやっと見つけてたてまつったんや。

そうして天皇は
「お前は誰の子やねん」
と尋ねたら、答えたんや。

「わいは、大物主の大神はんが陶津耳(すゑつみみ)の命の娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)を嫁はんにしてお生みになった子で、名前は櫛御方(くしみかた)の命っちゅう人の子の、飯肩巣見(いひかたすみ)の命っちゅう人の子の、建甕槌(たけみかづち)の命っちゅう人の子や。要するにわいが意富多々泥古や」

天皇はえらい喜んで
「天下は平和になって、人民はきっと栄えるやろう」
と仰せになって、さっそく意富多々泥古の命を神主にして三輪山の大神の神さんの神事をしてお祭りしたんや。また、伊迦賀色許男(いかがしこを)の命に命じて平たい祭具の土器を作らせて、天つ神地つ祇(あまつかみくにつかみ)の社をお定めになったんや。
また、宇陀の墨坂の神さんに赤い色の楯矛を祭って、大坂の神さんに黒い色の楯矛を祭って、また坂の山すその神さんや河の瀬の神さんに、すべて漏れることなく幣帛をたてまつったんやな。これによって、たたりはすべて止んで、国は平安になったんや。


三輪山伝説

この意富多々泥古っちゅう人を神さんの子やと知ったわけはこうや。

上述した活玉依毘売は、えらいべっぴんやったんや。
さてここに、若い男がおった。その容姿も態度も、当時には二人とおらんかった。夜半に音もなく突然来て、そしてお互いに愛でて結婚して、一緒に住んでる間、まだそれほど時も経ってないのにその娘は身ごもったんや。
そこで、父母は身ごもったことを不思議に思て、娘に尋ねたんや。

「お前は見た目にはっきりデキてるで。だんなもおらんのに、どないなわけでデキたんや」

娘は答えたんや。
「立派なええ男がおるんや。その名前も知らんけど。毎晩来て一緒に住んでる間に、自然にデキてしもてん」

この返事を聞いて、父母はその男の素性を知ろうと思って、娘に教えて言うたんや。
「赤土を床の前に散らして、糸巻きの麻糸を針に通して、男の着物のすそに刺すんや」

そして教えのとおりにして、夜明けに見てみると、針をつけた麻糸は戸の鉤穴から抜け出とって、残った糸は三巻きだけやった。そこで、鉤穴から出て行った様子がわかって、糸をたよりにあとをたどって行くと、三輪山に到着して大神神社に留まったんや。
それで、〔意富多々泥古を〕神さんの子やと知ったんや。
で、その麻糸が三巻き残ったところから、そこを名付けて三輪(美和)っちゅうんやな。

この意富多々泥古の命は、神の君、鴨の君の祖先や。


建波邇夜須毘古の反逆

また、崇神天皇の時代に、大毘古の命は高志の道(北陸地方)に派遣して、その子の建沼河別の命は東の方(東海地方)十二カ国に派遣して、その服従せぇへんやつらを平定させられたんや。
また、日子坐の王は丹波の国に派遣して玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させたんやな。

そして、大毘古の命は高志の国に出かけて行ったときに、腰裳をつけた少女が山代の境界の坂に立って歌ったんや。

御真木入彦はや 御真木入彦はや
おのが命を 盗み殺せむと
後つ門から い行きたがひ
前つ門から い行きたがひ
うかかはく 知らにと
御真木入彦はや

これを聞いて大毘古の命は不思議やと思て、馬を引き返してその少女に尋ねて言うたんや。
「今、おまえが言うたことは、どういう意味や」

すると少女は答えて
「うち、もの言うてへんで。ただ歌を歌うただけや」

て言うて、たちまち行方も見せんで忽然と姿を消してしもうたんや。
そして、大毘古の命はさらに〔都へ〕上って、天皇に申し上げたときに、天皇は答えて言うた。

「これは、山代の国にいてるあんたの庶兄(ままあに)建波邇安の王の反逆心を起こした表れとするべきや。伯父(おっ)ちゃん、軍をおこして討伐せぇや」

と仰せになって、ただちに丸邇(わに)の臣の祖先、日子国夫玖(ひこくにぶく)の命を副えて派遣したときに、丸邇坂で神祭りをして行ったんや。

その途中、山代の和訶羅河に着いたときに、その建波邇安の王が軍をおこして待ちさえぎって、お互いに和訶羅河を間にはさんで向かい合って、挑戦しあったんや。それで、そこを名付けて伊杼美(いどみ)ていうんや。今は伊豆美ていう。

そうして、日子国夫玖の命は願って言うた。
「そっちの人、先に矢を放ってこいやー」

それに応じて、建波邇安の王が射たんやけど命中できへんかった。一方、国夫玖の命の放った矢は建波邇安の王を射て、死んだんや。それで敵の軍勢はすっかり破れてしもて、逃げ散ってん。それでその逃げる軍を追って攻めて、久須婆(くすは)の渡し場に着いたときに、みんな攻め苦しめられて、屎が出て褌にかかったんや。それで、そこを名付けて屎褌(くそばかま)ていうんや。いまは久須婆ていう。
また、その逃げる軍をはばんで斬り殺したら、鵜みたいに〔屍体が〕河に浮いたんや。それでその河を名付けて鵜河ていうんやな。
また、その兵士をばらばらに斬り散らしたんや。それでそこを名付けて波布理曾能(はふりその)ていう。

こうして平定し終えて、上って復命したんや。

大毘古の命は、さきの命令に従って高志の国の平定のために下ったんや。そうして、東の方を経て派遣された建沼河別と、その父大毘古とは相津(あいづ)で行きあったんや。それで、そこを相津ていうんやな。
これでもって、それぞれ派遣された国々の政を平和にして復命したんや。

こうして、天下はごっつう平穏になって、人民は富み栄えたんやな。

ここではじめて、男の弓矢で捕らえた獲物、女の手でつむいだ糸織物をたてまつらせたんや。そして、その御世を称えて、初めて国を領有支配された御真木の天皇て申し上げるんや。
また、この御世に依網(よさみ)の池を作って、また軽の酒折の池を作ったんや。

天皇の御年は、百六十八歳や。戊寅の年の十二月に亡くなったんやな。御陵は、山の辺の道の勾の岡にあるんや。


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