其の廿一-清寧天皇〜顕宗天皇-

清寧天皇

御子の、白髪の大倭根子の命は、伊波礼の甕栗(みかくり)の宮においでになって、天下をお治めになったんや。

この天皇には皇后がなくて、また皇子もなかったんや。それで、御名代に白髪部をお定めになったんや。それで、天皇が亡くなられた後に天下をお治めになる王がなかったんやな。そこで、御代を継ぎ治める王を尋ねると、市辺の忍歯別の王の妹、忍海の郎女、またの名は飯豊の王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮においでになったんや。

※清寧天皇は古事記には御陵の記載なし。


二皇子の発見

さて、山部の連小盾(をだて)が、針間の国の長官に任命されたときに、その国の人民で、名前は志自牟の新築祝いの宴をしたんや。ここで、盛んに酒宴をして酒もたけなわなときに順序に従って舞ったんやな。それで、火焚きの少年が二人、かまどのそばに座ってたんやけど、その少年たちにも舞わせたんや。すると、その一人の少年が
「兄ちゃん、先に舞い〜」
と言うと、兄も
「弟、先に舞い〜」
と言うんや。
こう相譲ってるときに、その場に集まってた人々は、その譲る様子を笑ったんや。そしてとうとう兄が舞いおわって、次に弟が舞おうとするときに、歌って言うには

物部の わが夫子が
取り佩ける 太刀の手上に 丹畫き著け
その緒には 赤幡を載せ
赤幡を 立てて見れば
い隱る 山の三尾の 竹をかき刈り
末押し縻かすなす
八絃の琴を調べたるごと
天の下治めたまひし
伊邪本和気の天皇の御子
市辺の押歯の王の 奴末

そないなことで、小盾の連はこれを聞いて驚いて、席から落ちて転んで、その部屋の人たちを追い出して、その二柱の王子を左右のひざの上に座らせて泣き悲しんで、人民を集めて仮宮を作り、その仮宮にお住まわせ申し上げて、早馬の使いを送ったんや。するとその伯母の飯豊王が聞いてお喜びになって、宮に上らせなさったんやな。


闘歌

さて、天下をお治めしようという間に、平群の臣の祖先の、名前は志毘(しび)の臣が歌垣に立って、その袁祁(をけ)の命の求婚しようとする美人の手を取ったんやな。その嬢子は菟田の首らの娘、名前は大魚(おふを)や。ほいで、袁祁の命も歌垣にお立ちになったんや。
ここで、志毘の臣が歌った。

大宮の をとつ端手 隅傾けり

こう歌って、その歌の末(下の句)を所望したときに、袁祁の命はお歌いになったんや。

大匠 拙劣みこそ 隅傾けれ

すると志毘の臣は、また歌って

大君の 心を緩み
臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり

そこで王子は、またお歌いになって

潮瀬の 波折りを見れば
あそびくる しびが端手に 妻立てり見ゆ

それで、志毘の臣はますます怒って歌ったんや。

大君の 御子の柴垣
八節結り 結りもとほし 切れむ柴垣
焼けむ柴垣

そこで王子がまたお歌いになったんやな。

大魚よし しび突く海人よ
しが離れば 心恋しけむ しび突く志毘

こう歌って、徹夜してそれぞれ退いたんや。


志毘の臣

その翌朝のときに、意祁(おけ)の命・袁祁の命の二柱は相談して
「朝廷に仕える人たちは、朝には朝廷に参って、昼には志毘の家に集まるやろ。今朝は、志毘は絶対に寝てるやろな。また志毘の門前には人もおらんやろ。せやから、今でなかったら謀るのは難しいやろ」
と仰せになって、ただちに軍をおこして志毘の臣の家を囲んで、すぐさま殺したんやな。


譲り合い

この後、二柱の王子たちはお互いに天下を譲り合ったんや。意富祁の命は、その弟袁祁の命に譲って言うたんや。
「針間の志自牟の家に住んだときに、あんたが名前を明らかにしーへんかったら、決して天下に君臨できへんかったやろ。これは全く、あんたの手柄や。せやから、わしは兄やけど、やっぱりあんたが先に天下をお治めしぃや」

とおっしゃって、堅く譲ったんやな。それで、ご辞退ができへんで、袁祁の命が先に天下をお治めになったんや。


顕宗天皇

伊耶本和気の王の御子、市辺の忍歯の王の御子、袁祁之石巣別(をけのいはすわけ)の命は近つ飛鳥の宮においでになって、天下をお治めになることが八年やった。天皇は、石木(いはき)の王の娘、難波の王を嫁はんにしたけど、子供はおらんかった。


埋葬

この天皇が、その父王の市辺の王の御骨を捜し求められたときに、淡海の国のいやしい老婆が参上して申し上げたんや。

「王子の御骨を埋めた場所は、私だけがよく知っています。また、その御歯で確かめられます」(御歯は、三枝のように押歯でいらっしゃった)

そこで、人民を動員して土を掘って、その御骨を捜し求めたんやな。そうして、御骨を得て、その蚊屋野の東の山に御陵を作って埋葬されて、韓袋の子らにその御陵を守らせなさったんや。それから後に、その御骨を持って〔河内国へ〕上ったんや。

さて、〔皇居へ〕還り上って、その老婆を召して、場所を見失わずに確実にその地を知っていたのを誉めて、名を与えられて置目の老媼(おきめのおみな)と名付けられたんや。それによって宮の中に召し入れて、あつく広く慈しまれたんやな。それで、その老婆の住む家を宮の辺り近くに作って、毎日必ず召したんや。
そこで、大鈴を御殿の戸にかけて、老婆を召そうと思うときには必ずその鈴を引いて鳴らしたんや。そして、〔天皇は〕歌を作ったんや。その歌は

淺茅原 小谷を過ぎて
ももづたふ 鐸ゆらくも 置目来らしも

さて、置目の老媼が申し上げたのには、
「わしゃあ、たいそう老いておりまする。故郷にさがりたいと思うておりまするで」
それで、申し上げたとおりに退出するとき、天皇は見送って歌ったんや。

置目もや 淡海の置目
明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ

以前、天皇が難にあってお逃げになったとき、その食料を奪った猪甘の老人を捜し求められたんや。こうして、捜し求めて召し上げて、飛鳥河の河原で斬って、その一族の膝の筋を断ち切ったんや。こういうわけで、今日に至るまでに、その子孫は大和に上る日は、必ず足を引きずるんや。そして、よくその老人のもといた場所を見定めたんや。それで、そこを志米須ていうんやな。


報復の道義

天皇は、その父王を殺した大長谷の天皇〔雄略〕を深くお恨みになって、その霊に仕返しをしようと思われたんや。そこで、その大長谷の天皇の御陵を破壊したろうと思われて、人を遣わすときに、同母の兄意祁の命が奏上なさったんや。

「御陵を破壊するんは、他人を遣わしたらあかん。もっぱら、わしが自分で行って天皇の考えのように破壊して参りますさかい」

すると天皇が言うた。
「それやったら、言葉どおりに行ってきてや」

こないなわけで、意祁の命自らお行きになって、ちょっとだけ御陵の端っこを掘って、還り上ってお返事をしたわけや。
「すっかり壊したで」

そこで天皇は、早く帰ってきたことを不思議に思っておっしゃったんやな。
「どないにして壊したんや」
答えて
「その陵の端っこの土をちっょと掘ってん」
天皇が言うて、
「父王の仇を報いようて思うんやったら、絶対隅々までその陵を破壊するのに、なんでちょっとだけ掘ったんや」

答えて言うたんやな。
「そうした理由はな、父王の恨みを晴らすのに霊に復讐したろうと思うんは、そらほんまに当然やわ。せやけどな、その大長谷の天皇は父の怨敵やけども、一方ではわしらの従父にあたるで、それに天下をお治めになっとった天皇や。ここで今、ただただ父の仇っちゅう考えだけに固執して、天下を治めてた天皇の陵をすっかり壊したら、後世の人は絶対に非難するで。ただ、父の仇だけは、報復せぇへんわけにはいかん。せやから、その陵のあたりをちょっと掘ったんや。まったくこの辱めで、後世に〔報復の志を〕示すに足りるやろう」

こないに奏上されたので、天皇が答えて仰せになったのには
「これも大きな道理や。命の言葉どおりでええやろう」

さて、天皇が亡くなられて、すぐに意富祁の命が皇位につかれたんや。
顕宗天皇の御年は、三十八歳や。天下を治めたのは八年やな。
御陵は片岡の石坏の岡の上にある。


前の頁に戻る

古事記目次に戻る トップページに戻る