其の廿-雄略天皇-
雄略天皇
大長谷若建の命は、長谷朝倉の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇は、大日下の王の妹の若日下部の王を嫁はんにしたんや(子供はおらん)。また、都夫良意富美の娘、韓比売を嫁はんにしてお生みになった子は、白髪(しらか)の命や。次に妹の若帯比売(わかたらしひめ)の命や(二柱)。そこで、白髪の太子の御名代として白髪部を定めて、また長谷部の舎人を定めて、ほいでまた河瀬の舎人をお定めになったんや。この御代に、呉の人が渡ってきたんやな。その呉人を呉原に住まわせたんや。それで、そこを名付けて呉原っちゅうんや。 はじめ、大后が日下におられた頃、日下の直越えの道を通って河内におでましになったんや。ほいで、山の上に登って国内を遠望されると、鰹魚木(かつおぎ)を上げて屋根を作った家があったんや。天皇は、その家について尋ねさせて言うたんや。 「その鰹魚木を上げて屋根を作ったんは、誰の家やねん」 そこで天皇が 布を白い犬にかけて、鈴をつけて、自分の一族の、名前は腰佩(こしはき)ていう人に犬の縄を取らせて献上したんや。そこで、その家に火をつけることを止めさせたんやな。それからすぐ、その若日下部の王のもとにおいでになって、その犬を贈り入れて、〔従者に〕言わせたんや。 日下部の こちの山と そこで、この歌を持たせて、返してお遣わしになったんや。 またある時、天皇が遊びに出かけて美和河に着かれたときに、河の辺で衣を洗う童女がおった。その姿がたいそう美しかったんや。天皇は童女に尋ねたんやな。 そこで、その赤猪子は天皇の言葉を待って、とうとう八十年が経ったんや。それで赤猪子が思ったのは せやけど、天皇はすっかり先に言うたことを忘れとって、その赤猪子に言うたんや。 すると天皇はえらく驚かれて みもろの 厳白檮が本
引田の 若栗栖原 そうして〔歌をいただいて〕赤猪子が泣く涙は、すっかりその着ている赤く染めた服の袖を濡らしたんや。その御歌に答えて、〔赤猪子が〕歌ったんや。 みもろに 築くや玉垣 また歌って 日下江の 入江の蓮 そうして、〔天皇は〕多くの品物をその老女に賜って、お返しになったんや。 天皇が吉野の宮にお出ましになったときに、吉野川のほとりに童女がおった。それは姿かたちが美しかった。そこで、この童女と結婚して、宮に帰ったんや。 後にまた再び吉野にお出でになったときに、その童女が〔天皇に〕出会った所に留まって、そこに高い座(御呉床みあぐら)を立てて、その御呉床に坐って琴を弾かれて、その乙女に舞を舞わせたんやな。そして、その乙女が上手に舞ったので、歌をお詠みになったんや。その歌は 呉床座の 神の御手もち 弾く琴に それから阿岐豆野にお出でになって、狩をなされたときに、天皇は御呉床に坐っておられた。すると虻(※)がその腕に食いつくとすぐ、蜻蛉が来てその虻をくわえて飛び去った。(蜻蛉を訓じてアキヅという) み吉野の 小室が岳に しし伏すと またある時、天皇が葛城の山の上にお登りになったんや。すると大きな猪が出てきた。すぐさま天皇が、鳴り鏑でその猪を射たときに、その猪が怒って、唸って寄って来たんや。それで天皇は、その唸り声を恐れて榛の木の上に逃げ登ったんや。そして歌ったんや。 やすみしし わが大君の またある時、天皇が葛城の山にお登りになった時に、百官の人たちがすべて、紅い紐をつけた青摺りの衣服を賜って着たんや。その時に、その向こうの山の尾根伝いに、山の上に登る人がおったんや。まったく、天皇の行幸の列と同じ形で、またその装束のかたち、また人々もよく似て同じだった。そこで、天皇は遠望されて従者に尋ねさせて、仰せになったんや。 「この倭の国に、わしをさしおいてほかに大王はおらんっちゅうのに、今そこにどないな人がこないにして行くねん」 と仰せになると、〔向こうの人が〕答えて言う有様も天皇の言葉どおりやったんや。そこで天皇はえらい怒って矢をつがえて、すべての官人らも全部、矢をつがえたんや。そして、向こうの人たちもみんな矢をつがえたんや。それで天皇は、また尋ねて言うたんや。 「それやったら、そっちの名を名乗らんかい。ほいで、互いに名を名乗ってから矢を放ったろやんけ」 すると答えて言うには 天皇はこれを聞いて、恐れて申し上げたのには また、天皇が丸邇の佐都紀(わにのさつき)の臣の娘、袁杼比売(をどひめ)と結婚しに、春日にお出でになったときに、乙女と道で出会ったんや。それで〔乙女は〕行幸を見て、岡の辺りに逃げて隠れたんやな。そこで〔天皇は〕歌を詠まれたんや。その歌は 媛女の い隱る岡を それで、その岡を名付けて金鉏の岡ていうんや。 また、天皇が長谷の枝の茂った槻木の下で、新嘗祭の宴をしたときに、伊勢の国の三重の婇(うねめ) が、天皇の盃をささげて献上したんやな。すると、その茂った槻の葉が、落ちて天皇の盃に浮かんだんや。その婇は、落ち葉が盃に浮いているのを知らないで、やっぱり御酒を献上したんや。天皇は、その盃に浮いた葉をご覧になって、その婇を打ち伏せて、太刀をその頸にさしあてて斬り殺そうとした時に、その婇が天皇に申し上げて言うたんや。 纏向の 日代の宮は 倭の この高市に
ももしきの 大宮人は この三つの歌は、天語歌や。そこで、この新嘗祭に、その三重の婇を誉めて、多くの品物を与えられたんや。 この新嘗祭の日にまた、春日の袁杼比売が、御酒を献上した時に、天皇がお歌いになった。 みなそそく 臣の嬢子 ほだり取らすも
やすみしし わが大君の これし、しつ歌や。 天皇の御年は、百二十四歳や。(己の巳の年の八月の九日に亡くなったんやな) (※)虫へんに、口の中に又。あむ、と読む。今のアブ |