其の十三-景行天皇U-

足柄の神

そこ〔上総国〕から入って行って、ことごとく荒れすさぶ蝦夷(えみし)等を服従させて、また、山河の暴れる神さん等を平定して、〔都へ〕帰り上るときに、足柄の坂のふもとに着いて、食料を食べているところへ、その坂の神さんが白い鹿に化身して来たんや。

それを見てすぐに〔倭建命は〕食べ残した蒜(ひる)の片端を持って、待ち構えてお打ちになったら、鹿の目に命中するなり打ち殺されてしもたんや。

こうして、その坂に登り立って、なんべんもため息をついて
「わしの嫁はんよぉ」 (「あづまはや」)
て言われたんやな。
それで、その国を名付けて阿豆麻(あづま)て言うんやで。


甲斐の問答

そして、その〔相模〕国から越えて甲斐においでになって、酒折の宮におられたときに歌われたたんや。

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

すると、そのかがり火を焚いている老人が歌に続けて歌ったんや。

かがなべて 夜には九夜 日には十日を

即座に歌ったんで、その老人を誉めて、すぐに東の国の造を賜わったんや。


美夜受比売

その国から信濃の国に越えて渡って、そのまま科野の坂の神さんを服従させて、尾張の国に帰って来て、先日約束した美夜受比売のもとへ入ったんや。

さて、〔比売が〕ご馳走を差し上げたときに、美夜受比売が酒盃をささげてたてまつったんや。その時、美夜受比売は外衣のすそに月のもんの血がついとった。それで、その血を見て〔倭建命が〕歌を詠んだんやな。

ひさかたの 天の香久山
とかまに さ渡る鵠
ひはぼそ たわや腕を
まかむとは あれはすれど
さ寝むとは あれは思へど
ながけせる おすひの襴に
月たちにけり

そこで、美夜受比売は歌に答えてたんや

高光る 日の御子
やすみしし わが大君
あらたまの 年がきふば
あらたまの 月はきへゆく
うべな うべな うべな
君待ちがたに
わがけせる おすひの襴に
月たたなむよ


伊吹山

そういうことで、ご結婚されて、その刀の草薙の剣を美夜受比売の許に置いて、伊服岐の山の神さんを討ち取りに出かけたんや。

そこで〔倭建命が〕仰せになったんや。
「この山の神さんは、何も持たんと素手で討ち取ったろう」
と仰せになって、伊吹山に登られたときに、白い猪に山のあたりで出会うたんやな。その大きさは牛ぐらいや。
それで、大声に出して
「この白い猪に変身してるんは、その神さんの使いや。今殺さんでも、帰る時に殺したるでぇ」
て言われて、登られたんやな。

そこで〔山の神さんが〕大氷雨を降らせて、倭建の命を打ち惑わせたんやな。
(この白い猪に変身したのは、神さんの使いとちごて、神さん自身やったんを、言挙げしたさかいに困惑させられたんや)

そして、〔山から〕帰って下りて、玉倉部の清水に着いてお休みになったときに、次第に正気にかえられたんや。それで、その清水を名付けて居寤(ゐさめ)の清水て言うんや。


倭は国のまほろば

そこから出発されて、当芸野(たぎの)のあたりにお着きになったときに、仰せになったんや。
「わしは、心の中でいつも空を飛んで行こ思てたんや。せやけど今、わしの足は歩かれへん、曲ってびっこ引くようになってしもた」
それで、その土地を名付けて当芸ていうんや。

そこからほんの少し行くと、たいへん疲れたさかいに杖をついて、そろそろと歩いたんや。それで、そこを名付けて杖衝坂ていうんやで。
尾津の前の一本松のもとに着いて、往路で食事をしたときにそこへ忘れていった刀が、なくならずにそのままあったんや。それで、歌を詠んだんやな。

尾張に ただに向へる
尾津の崎なる 一つ松 あせを
一つ松 人にありせば
太刀はけましを きぬ着せましを
一つ松 あせを

そこからおいでになって、三重の村に着いたときに、また仰せになったんや。
「わしの足は、三重の曲り餅みたいで、えらい疲れてしもた」
それで、そこを名付けて三重ていうんや。

そこからお進みになって、能煩野(のぼの)にお着きになったときに、国をしのんでお歌いになったんや。

倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣 山隠れる
倭しうるはし

また、歌って

命の またけむ人は
たたみこも 平群の山の
熊白檮が葉を 髻華に插せ その子

この歌は、望郷の歌や。また、お歌いになったんや。

はしけやし 我家の方よ 雲居立ちくも

これは、片歌や。
この時に、病気が急変して危ない状態になったんや。
それで、歌をお詠みになったんや。

嬢子の 床のべに
わが置きし 剣の太刀 その太刀はや

歌い終わるやいなや、お亡くなりになったんや。それで、駅使を上らせたんや。


天翔ける白鳥

そこで、大和にいる嫁はんら、子供ら、みんな〔能煩野〕に下ってきて、御陵を作ってそして、そこの傍にある田んぼに這い廻って、泣いて歌を詠んだんや。

なづきの田の 稲がらに
稲がらに 匍匐ひ廻ろふ 野老蔓

そこで〔倭建命は〕大きな白い千鳥に化身して、天空高く飛んで、浜に向かって飛んで行ったんや。
それで、嫁はんや子供らは、小竹原の苅株に足を傷つけながらも、その痛さを忘れて泣きながら追って行ったんや。このときに〔后や御子には〕お歌いになったんや。

浅小竹原 腰なづむ
空は行かず 足よ行くな

また、その海に入って苦労して追って行かれたときにお歌いになったんは

海処行けば 腰なづむ
大河原の 植ゑ草
海処は いさよふ

また、〔白鳥が〕飛んでその磯にいたちきにお歌いになったんやな。

浜つ千鳥 浜はよ行かず 磯づたふ

この四つの歌は、みんな〔倭建の〕葬式で歌ったんや。そして、今に至るまでその歌は、天皇の大葬式で歌うんや。

そして、〔白鳥は〕その国から空高く飛んで行って、河内の国の志幾に留まったんやな。それで、そこに御陵を作って鎮め申し上げたんや。そしてその御陵を名付けて、白鳥の御陵ていうんや。

せやけど、またそこから天に舞いあがって飛んで行ったんや。およそ、この倭建の命が国を平定するために巡って行かれたときに、久米の直の祖先の、名前は七拳脛(ななつかはぎ)が、常に料理人としてお仕え申し上げとったんや。


系譜

この倭建の命が、伊玖米の天皇〔垂仁天皇〕の娘の、布多遅能伊理毘売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、帯中津日子(たらしなかつひこ)の命や。

また、海に入った弟橘比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、若建(わかたける)の王や。

また、〔倭建命が〕近江の安の国の造の祖先の、意富多牟和気(おほたむわけ)の娘の布多遅比売(ふたぢひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、稲依別(いなよりわけ)の王や。

また、吉備の臣建日子の妹、大吉備建比売(おほきびたけひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、建貝児(たけかひこ)の王や。

また、山代の玖々麻毛理比売(くくまもりひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、足鏡別(あしかがみわけ)の王や。

また、〔倭建命の〕ある嫁はんの子は、息長田別(おきながたわけ)の王や。

数え合わせて、この倭建の命の御子等は六柱やな。

そして、帯中津日子の命は、天下をお治めになったんや。
次に、稲依別の王は犬上の君、建部の君等の祖先や。
次に、建貝児の王は、讃岐の綾の君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の首、宮首の別等の祖先や。
足鏡別の王は、鎌倉の別、小津・石代の別、漁田の別の祖先や。

次に、息長田別の王の子で、杙俣長日子(くひまたながひこ)の王、この王の子は飯野の真黒比売(まぐろひめ)の命や。次に息長の真若中比売(まわかなかつひめ)、次に弟比売(おとひめ)や。

上記の若建の王が、飯野の真黒比売を嫁はんにしてお生みになった子は、須売伊呂大中日子の王や。
この王が近江の柴野入杵(しばのいりき)の娘、柴野比売(しばのひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、迦具漏比売の命や。
そして、大帯日子の天皇(景行天皇)が、この迦具漏比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大江(おほえ)の王や
この王が、庶妹の(しろかね)の王を嫁はんにしてお生みになった子は、大名方(おほながた)の王で、次に大中比売(おほなかつひめ)の命や。
そして、この大中比売の命は、香坂(かごさか)の王忍熊(おしくま)の王の親やな。

この大帯日子の天皇の御年は、百三十七歳や。御陵は、山の辺の道のほとりにあるんや。


前の頁に戻る 次の頁に進む

古事記目次に戻る トップページに戻る