三侠五義・其の壱 狸猫換太子(すり替えられた太子)・2

 この仁宗皇帝の朝の役人の中に現れたのが、剛直にして諂わず、清廉潔白、公平無私な名臣包拯、人呼んで「包青天」である。
 包公は廬州合肥県包家村に生まれた。父の包懐は田畑を多く持つ員外(富豪)で、人の為に善行を施し、自分は慎ましく生活を送っているので、人々は彼を「包善人」と呼んだ。
 包懐夫婦は年齢五十に近く、二人の息子がいた。長子の名は包山、次子の名は包海、何れも妻を娶り、子を生していた。親子兄弟は春には種を蒔き秋にはそれを刈り取ると云った農村の暮らしぶりで、一族は相敬い仲睦まじく見えた。

 ところが豈図らんや、包懐夫人の周氏が突然身籠ってしまった。自分はもうお爺ちゃんだと思っていた包員外は、又しても子が出来ると言うのも、些かバツが悪く、為に終日塞ぎ込む有様だった。
 ある日、包員外が一人で書斎にいると、睡魔に襲われて転寝した。うとうとしていると、空に瑞雲が立ち上っているのが見えた。その雲から現れた一匹の怪物、左手に一錠の銀を乗せ、右手に一本の朱筆を持ったのが、跳ぶ様にやって来た。
 員外は絶叫し、自分の叫び声で夢から醒めた。夢がまだ覚めやらぬ間に、女中が簾を開けて入って来ると、
「旦那様、お喜び下さい!たった今、奥様が男の子をお産みになりましたよ。」
 その知らせに、包員外は思わず冷ややかに息を呑んだ。
「一家の不幸じゃ、こんな妖怪が生まれるとは!」

 次兄の包海は狡猾な性格で、一家に弟が増えたのを、財産を分ける相手がまた多くなったのかと感じて、妻の李氏と悪計を企てた。
 二人は父親の前まで来ると、
「古い書物にもありますが、妖精が門に入ると、その家は没落し、人が亡んでしまうそうです。早いうちに厄介なものは捨ててしまうに越した事はありません。」
 と、唆した。員外も頻りに頷いて言った。
「この件はお前達に任せた。急いでやってくれ。」
 父の頼みに包海は、母親の寝室に取って返し、弟は死んだと偽ると、すぐに弟を茶籠に入れて、錦屏山に運んだ。草深い穴を見付けると、籠を下ろして、弟を穴に捨てようとした。
 その時、草叢に緑の光一閃、縞の模様も鮮やかな猛虎の眼の光である。包海は魂消て、弟を投げ捨て、身を翻して逃げ去った。

 包海は家に逃げ帰ると、嬰児を捨てに行って虎に遇ったと妻の李氏に話した。偶々、包山の妻の王氏がその窓の外を通っており、二人の話を耳にして、余りの事に思わず涙が溢れ出した。
 王氏は急いで部屋に戻り、この事を包山に話した。包山は訝しく思った。
「本当か?私が行って見て来るから、待っててくれ。」
 包山が急いで錦屏山にやって来ると、果たしてそこは意一面の草叢であった。周りを捜したが茶籠が転がっているのを見付けただけで、弟の姿は見えず、気ばかりが急いた。

 少し進んだ草叢に、産着から這い出て来たのか、真っ黒けで、つやつやした、素っ裸の赤ん坊を見付けた。
 包山は驚くやら喜ぶやらで、慌てて赤ん坊を抱き上げると、懐に隠して、こっそりと部屋まで戻った。王氏は赤ん坊が元気なのを見ると受け取って、服の襟をひろげて乳を飲ませた。
「今は三弟を助けて帰って来たが、私達の所の子供が急に二人になったら、人はおかしく思うのではないか?」
 包山に相談された王氏は言った。
「では、私達の子供の方を他所に預けましょう。」

 あっと言う間に六年が過ぎ、三弟は七歳になり、兄嫂を父母と呼ぶ生活のまま、黒子と名付けられた。     
 その日は包員外夫人の周氏の誕生日で、王氏はその御祝いに黒子を連れて行った。挨拶を終えて、見れば包黒が周氏の前に跪き、恭しく三回叩頭している。
 周氏は大喜びで、黒子を胸に抱くと、感極まって言った。
「六年前に私は子供を産んだのだけど、気を失っている間に、何故だか死んでしまったの。もし生きていたなら、この子位になっていたでしょうにねぇ。」

 王氏はこれを聞くと跪いて申し上げた。
「この子がその時お産みになった子供です。この嫁は、お義母様のお年では、乳が足りなくなるだろうと考え、私共の方で三弟を預かり育てておりました。」
 周氏は王氏を助け起こすと、尋ねた。
「私の子供は貴女のお蔭で育っているけれど、私の孫は今何処にいるの?」
「今は他所で育てられております。」
 周氏は聞くなり、孫を連れて来るように言ったので、員外もこうなってしまっては、如何とも仕様がなかった。周氏はそれからと言うもの、黒子を大層可愛がった。

 月日は流れ、黒子は九歳になった。包海夫婦は相変わらず三弟を害しようと考えていた。ある日の事、包海は員外に讒言した。
「黒子はもう九歳ですよ。牧童に連れて行って貰い、牛羊の放牧の仕方でも習うべきでしょう。」
 員外は同意した。
 この為黒子は、家の作男の子供の保児と、毎日近くへ放牧に出掛けた。
 ある夕方、黒子と保児が村外れで放牧していると、女中の秋香が油餅(揚げ菓子)を届けに来た。
「これは二奥様が三若様に下さったおやつです。」
 黒子が大喜びで、油餅を取って食べようとした時、一匹の犬が忍び寄って来ると、油餅をくわえて逃げて行ってしまった。

「勿体無いなぁ、せっかくの油餅なのに、行って犬から取り戻して来よう。」
 傍らの保児が言うのを、黒子は押し止めた。
「犬が口にくわえた物だよ、止めておこう。」
 二人が牛や羊を追って帰って来ると、羊小屋の側で、固くなって伏せている油餅泥棒の犬が、七つの孔から血を流して死んでいるのを見付けた。二人は驚いて叫び出した。
 保児の父親の周が声を聞いてやって来、それを見て不思議に思った。
「この犬は毒に能って死んだ様だが、何を喰ったのか知らないか?」
 保児はつい先刻の出来事を話した。周は、今後二奥様が下さったどんな物も、絶対に食べてはいけないと黒子に言って聞かせた。

 何日かが過ぎたある日、秋香が二番目の嫂の所に来るよう、黒子を呼びに来た。其処で李氏が言う事には、
「秋香の不注意で、金簪を裏庭の枯井戸の中に落としてしまったのよ、お願い三弟、助けると思って井戸の中に下りて取って来て頂戴な。」
 黒子は快く承知した。
 裏庭の井戸の処にやって来ると、黒子は腰に縄を括りつけ、井戸に手を懸けると、ゆっくり縄を下ろす様に、李氏と秋香に頼んだ。
 黒子が井戸の横壁に沿って半分程下りた時、腰の縄が弛んだかと思うと、振り子の様に揺られて、どすんと井戸の底に落ちた。

 黒子は漸く、李氏は矢張り自分を殺そうと考えているのだと悟った。憤懣やる方なく思っていると、前方に一筋の光明が見えた。黒子は光の方へ向かい、手探りでゆっくりと進んだ。
 暫く進むと、あの光の場所、つまり、洞窟の出口を見付けた。洞口から這って出ると、そこは村外れの地下溝であった。
 黒子は家に帰ると、かんかんに怒って、一番目の兄と嫂にこの事を話した。二人は溜息を吐くと、これからはよくよく注意しなくてはいけないと、三弟に言い聞かせた。

 次の日、三弟に読み書きを教える先生を招きたいと、包山は父親に頼んだ。そうすれば、第一に将来、家の金銭の出納の書き付けを任せられるであろうし、第二に、試験に受かって名を揚げれば、家の名誉ともなる。その説得に、員外も納得して承諾した。
 何日か後、包家は寧先生と云う方を招いた。黒子は生まれつき聡明で、一度学んだ事は忘れず、先生の喜びは一入どころではない。寧先生は、民を苦しみから救(拯)い出すべく、必ずや将来は大器となるであろう意味を込め、黒子に「拯」と名付けた。
 時は流れ、包拯は成人し、充分な見識を学び得た。寧先生は包拯の科挙受験を強く推薦し、受ければ掲榜に名を列ねる事となった。
 寧先生は包拯に会試受験の為上京させる事にした。包拯は書童の包興を連れて、父母に別れを告げ、村外れ迄見送りに来てくれた包山と寧先生には、長々と別れを惜しんだ。

【閑話休題・2】 あの夢は何だったのでしょう?
 このページで、包拯の出生時に包懐が妖怪の夢を見たが為に、この子を嫌うと云うエピソードがありますが、夢の解釈が省かれていて解り難いので、フォローします。
 包拯が合格しても、父親の包懐が喜ばないどころか不機嫌になるのを、訝しく思った寧先生は理由を尋ねます。包懐の悪夢の話を聞き、先生は「奎星」に似ていると思うのです。
 つまり、包拯は天が遣わせた人物だと云う事です。
 その「奎星」ですが、北斗の第一星から第四星までの事で、文運をつかさどると言われているそうです。魁星、斗魁とも言います。「水滸伝」の第一回でも、包拯は文曲星とあります。文曲は北斗の第四星の事だそうです。
 ちなみに「水滸伝」で「魁星」は筆頭に上げられていまして、それを持つのは天魁星の宋江と地魁星の朱武です。
 余談ですが、「水滸伝」によると、仁宗皇帝は赤脚大仙なのだそうです。


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