其の廿二-仁賢天皇〜推古天皇-
仁賢天皇
袁祁(をけ)の王の兄の、意富祁(おほけ)の王は、石上の広高の宮においでになって、天下をお治めになったんやな。天皇が、大長谷若建の天皇の御子の、春日の大郎女を嫁はんにしてお生みになった子は、高木の郎女や。次に財(たから)の郎女、次に久須毘(くすび)の郎女、次に手白髪(たしらか)の郎女で、次が小長谷の若雀(をばつせのわかささぎ)の命や。次が真若(まわか)の王やで。 この天皇の御子は、合わせて七柱やな。この中で小長谷の若雀の命が天下をお治めになったんや。 ※仁賢天皇は古事記には御陵の記載なし。
小長谷の若雀の命は、長谷の列木の宮においでになって、天下をお治めになること八年やった。この天皇は太子がおらんかった。せやから、御子代として小長谷部をお定めになったんや。 天皇がすでに崩御されて、皇位につくべき皇子がおらんかった。せやから、品太の天皇の五世の孫の、袁本杼(をほど)の命を、近つ淡海の国からご上京させて、手白髪の命と結婚させて、天下をお授けしたんやねん。 品太の天皇の五世の孫、袁本杼の命は伊波礼の玉穂の宮においでになって、天下をお治めになったんや。天皇が、三尾の君等の祖先の、名前は若比売を嫁はんにしてお生みになった子は、大郎子や。
次に出雲の郎女(二柱)やな。 この〔継体〕天皇の御子たちは、合わせて十九柱やな(男七柱、女十二柱)。この中の天国押波流岐広庭の命は、天下をお治めになった。次に広国押建金日の命が天下をお治めになったんや。次に、佐々宜の王は、伊勢の神の宮をお祭りなさったんや。 この御世に、竺紫の君石井が天皇の命に従わんと、無礼なことが多かったんやな。それで、物部の荒甲(あらかひ)の大連・大伴の金村の連の二人を遣わせて、石井を殺されなさったんや。 天皇の御年は、四十三歳や(丁の未の年の、四月九日にお亡くなりになった)。 御子の広国押建金日の王は、勾(まがり)の金箸の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇は、御子がおらんのや(乙の卯の年の三月の十三日にお亡くなりになった)。 弟の建小広国押楯の命は、檜坰(ひのくま)の〔广+盧〕入野(いほりの)の宮においでになって、天下をお治めになったんや。天皇が、意祁の天皇の御子の、橘の中比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、石比売(いしひめ)の命や(石を訓むんは、石のようにや。下はこれにならえ)。次に小石比売(をいしひめ)の命や。次に倉の若江の王やな。 弟の天国押波流岐広庭
の天皇は、師木島の大宮においでになって、天下をお治めになったんや。天皇が、檜坰の天皇の御子の、石比売を嫁はんにしてお生みになった子は、八田の王やな。次に沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましき)の命や。次に笠縫の王や(三柱)。 この中で、沼名倉太玉敷の命は天下をお治めになったんや。次に橘の豊日の命が天下をお治めになった。その次に豊御気炊屋比売が天下をお治めになったんやな。次に長谷部の若雀の命が天下をお治めになったんやで。合わせて四柱の王が、天下をお治めになったんや。 御子の沼名倉太玉敷の命は、他田の宮においでになって、天下をお治めになったんは十四年や。この天皇が、庶妹の豊御気炊屋比売
の命を嫁はんにしてお生みになった子は、静貝(しづかひ)の王、そのまたの名は貝蛸(かひたこ)の王や。次に竹田の王、またの名は小貝の王や。次は小治田の王で、次は葛城の王、次に宇毛理(うもり)の王や。次に小張の王。次に多米の王。次は桜井の玄(ゆばり)の王や(八柱)。 この天皇の御子等の、合わせて十七柱の王の日子人の太子が、庶妹の田村の王、またの名は糠代比売を嫁はんにしてお生みになった子は、岡本の宮においでになって天下をお治めになった天皇〔舒明天皇〕やねん。次に中津の王、次に多良の王や(三柱)。 弟の橘の豊日の王は、池辺の宮においでになって、天下をお治めになること三十年や。この天皇が稲目の宿禰の大臣の娘の、意富芸多志比売(おほぎたしひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、多米の王やで(一柱)。また、庶妹の間人の穴太部の王を嫁はんにしてお生みになった子は、上の宮の厩戸の豊聡耳の命や。次に久米の王、次に植栗(ゑくり)の王や。次に茨田(まむた)の王やな(四柱)。 この天皇は、(丁の未の四月十五日にお亡くなりになったんや)。 弟の長谷部の若雀の天皇は、倉椅の柴垣の宮においでになって、天下をお治めになること四年や(壬子の年の十一月十三日にお亡くなりになった)。 妹の、豊御気炊屋比売
の命は、小治田の宮においでになって、天下をお治めになること三十七年や(戊子の年の三月十五日、癸の丑の日にお亡くなりになったんや)。 |