◇弥生土器を追う(3)

2000年ぶり かめ棺への挑戦


【弥生のナゾ「かめ棺」】                 

 佐賀、福岡を中核とする北部九州には弥生時代の墓制として「かめ棺墓」が盛んでした。ところがこの「かめ棺」は日本列島で不思議にもこの地域だけに存在した独特の「古代墓制」で、北部九州の弥生遺跡の地下には3〜4万基が眠っていると推定されている。

 このかめ棺は弥生中期(BC100年〜AD100年)がピークの墓制であるが、弥生後期には殆ど衰亡するという数奇な運命を背負っており、なにか国の存亡とか部族の命運のカギを握っているキーワードかもしれない。いまひとつ、この大量に出土している「かめ棺」がどんな方法で作られ、どこで焼成されたか?考古学界でも大きなナゾであり、まだ何も解明されていない、そこで私たちは「かめ棺」のナゾに挑戦することにした。

 

 

【作陶 − 幻の「かめ棺」の制作】

(a)叩きの技法で挑戦

 この「弥生のかめ棺」復元の主役はタイ北部チェンマイ市近郊のモンカオケオ陶芸村の大かめづくりの名人陶工、48才のチャントラさんです。彼女は身長153aと小柄なのでタイの作陶では高さ60aの大かめが限界だと言っていたが、意欲的に90aの「弥生のかめ棺」の制作にチャレンジしてくれることになった。

 

 まず試作として円筒型の高さ80aの制作に成功したチャントラさんは、次に下部がすぼんだ「かめ棺」の作陶を続けたが、約50aの高さで、「かめ棺」は粘土の重さに耐えきれずつぶれてしまった。初体験でありタイとは粘土が異なるので、さすがの名人チャントラさんも大型かめ棺の作陶には大変苦労したのである。

 そこでこの技術指導には唐津焼13代中里太郎右衛門陶房の松本俊光工場長が当たり、作陶作業過程を三段階に分けて、@下体部(約30aの高さ)の作陶からスタートし、A次に「叩き」で強化された下体部のうえに、粘土ひもを積み上げ、回転板を使って胴部の作陶を続ける Bその後に上体部で、「口縁部」を作陶するという段階的作業で、約90aの「大型かめ棺」はついに誕生した。 

(b)定説を破った女性陶工

 タイの大かめ作りの「叩きの道具」は重厚であり、「叩きの技法」もたくましく本格的です。チャントラさんが堅牢な叩きの道具を使いダイナミックに叩くと、粘土の表面が叩き締められ強度を増すと同時に、滑らかなそして膨らみのある美しい曲線美に変身するからみごとである。これが大かめ作りの名人チャントラさんの秘芸とも言えよう。

「弥生のかめ棺」は恐らく男性陶工の専業であり、女性が作ることは無理だというのが定説であったが、チャントラさんは鮮やかにそのタブーを破ったのである。
  

【公開焼成実験(古代やきもの広場)】

  弥生のかめ棺 − 2000年ぶりに誕生  今回の古代陶芸実演の最大の課題である「弥生のかめ棺」の公開焼成実験が平成8年9月22日吉野ヶ里会場「古代やきもの広場」の周辺を埋めた陶芸ファンの見つめる前でいよいよ始まった。タイの陶工チームはリーダーのチャントラさんを中心に、ナンバー2のサイソーンさん(56才)一番若いガカムさん(36才)と通訳のランシーさんの4人で野焼きの準備を入念に進めた。

 

 いよいよ火入れが行なわれ、ワラ灰の窯は猛然と煙を吐き始めた。丸一日野焼きが続けられ、翌9月23日2000年の歴史の空白を埋める待望の窯出しです。さて結果の程は・・・緊張と不安が高まる一瞬です。

 

 二つのかめ棺のうち右側の「2号棺」は割れていたが、左側の「1号棺」は焼きキズもなく焼成に成功していました。2000年ぶり「弥生のかめ棺」がみごとによみがえったわけです。陶工スタッフも満場の陶芸ファンの皆さんも大喜び、会場には感激と祝福の拍手が嵐のように起こりました。 

 


【総括解説】

(a)大久保遺跡は語る

 佐賀県鳥栖市の大久保遺跡で弥生中期の「かめ棺」工房が発見されており、右の画像で紹介している「焦げた土」などから見ても雲南方式の原始窯で野焼きしたようで、佐賀県文化財課が発表した「工房の原始窯の想像図」では「炭と灰を敷いた床の上で焼いた」ものと見られており、タイ方式も含めて野焼きのこんごの調査研究が期待されている。

 

(b)突破口 − 名工との出逢い 

 今回の実演は「かめ棺」の作陶、焼成(5割は成功)にまずまず成功し、そのナゾを解く「突破口」を拓いてくれたと考古学者からも評価して頂いた。だがこの成功は粘土、マキ、ワラ、気候風土などすべてが異なる異国の地で、チャントラさんをリーダーとするタイの女性陶工さんたちが、その名人芸でハンディを克服し、心血を注ぐ努力で「弥生のかめ棺」をみごと復元してくれたのが要因である。

 この名人との出逢いがまず幸運であり、実演は多くの成果をあげて、弥生のナゾを解く「いとぐち」を見出しました。


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(執筆 − 東アジア古代文化研究会  内藤大典)