◇吉野ケ里とは

【なぜ弥生のメッカなのか?】

 (イ)「原始のクニ」が突如出現弥生文化のメッカと呼ばれる佐賀県神埼郡(佐賀市郊外)の「吉野ヶ里遺跡」は、日本列島に稲作農耕文化がはじまった紀元前3世紀頃誕生したと思われる古代の原始的な「クニ」です。この頃、倭国と呼ばれていた日本はまだ王権が確立した「古代国家」が形成されておりません。北部九州地方でも数多くの「クニ」が乱立していた「倭国動乱」の時代でしょう。その「クニ」の中で目立っていたのが「奴国」「伊都国」(福岡県)でしたが、まだよく知られていなかった九州 有明海沿岸の佐賀平野に、工業団地開発のための大規模発掘で突如 登場したのが「吉野ヶ里遺跡」です。

 (ロ)軍事拠点か、ハイテク基地か?

 しかも日本一の大環壕(外堀)に囲まれていた約40ヘクタールの大規模な弥生遺跡であり、竪穴住居を中心とする環壕集落には、宮殿らしい大型の高床建物、望楼とも呼ばれる物見櫓、周辺には大型の高床倉庫群を配置するなど、「クニ」の中心集落であり防御的要素を備えた軍事拠点としての様相も備えていました。その後調査が進むにつれて、この環壕集落の中には、稲作農耕だけでなく青銅器工房(銅剣、銅矛などの鋳型が出土)「弥生の絹」を織ったと思われる紡織工房(紡織機など出土)、また数多くの土器を製作、焼成した専住工房があったと思われるハイテク工業基地でもあった。

 (ハ)王族の誕生?墳丘墓

 しかも政治中枢が存在していたことを物語る「墳丘墓」と呼ばれる「階層社会」を裏書きする「特別な墓地」も設けられていた。しかもその「墳丘墓」に向かう参道のような台地には二列に「かめ棺の列埋葬」が並んでおり、何か首長(王侯?)に対する尊崇の儀礼の墓制ではないかと見られるわけです。また「墳丘墓」の中には大型の「かめ棺」が14基埋葬されていたが、その「かめ棺」の中には日本でも二例しかない「把頭飾つきの有柄細形の銅剣」など8本の銅剣、日本でも珍しい「明るいブルーの管玉」約80個などの豪華な品が副葬され、その底には秦の始皇帝が好んだ真紅の「水銀朱」が敷きつめられていた。このことは王族とでも呼べる「階層社会」が既にあったことを示しているような厚葬ぶりです。

 (ニ)繁栄していた「弥生都市」

 その後の調査で判明したことですが、拠点集落の吉野ヶ里周辺には小環壕集落が衛星のように散在している。吉野ヶ里はその当時これらの周辺集落を束ねた防御拠点、手工業工房、交易の市を備えた「弥生都市」として繁栄していたようです。この時代既に「都市文明」を持っていたことが吉野ヶ里の大きな特色であり、ここを訪れた考古究者、古代史ファンをびっくりさせたものです。

 佐賀平野は有明海、筑後川に通じた水上交通が古代より開け、日本列島の各地だけでなく、朝鮮半島や中国などとの交流が盛んであり、いち早く大陸との海外文化交流の門戸として、玄海灘の「奴国」「伊都国」とともに「吉野ヶ里」がその位置を占めていたようです。

 この頃(紀元1〜2世頃)北部九州では日本列島の中でもいち早く水田稲作だけでなく、コメの調理に適した弥生土器、磨製石器類、青銅器や鉄器、機織(はたおり)の道具、高床倉庫などの先進技術が中国大陸、朝鮮半島から導入され、北部九州の人々の生活は大きく変わりました。

 これがいわゆる「弥生文化の開花」であり、大陸から多くの各関係の専門工人の集団が北部九州に渡来して、当時の倭人(縄文人及び弥生人)にその新しい技術をコーチしてくれたのかもしれません。

 この事実は吉野ヶ里を中核とした「かめ棺」(北部九州には4〜5万基が埋蔵されていると推定されている)の中に眠る「渡来系弥生人」の古人骨がこれを証明しています。


【吉野ヶ里遺跡が語るもの】

 (イ)弥生は平和な時代であったか?

 約10年前、吉野ヶ里が産声をあげた頃、この遺跡を訪れた人々がまず驚いたのは、延長1qの大環濠(外濠)の偉容です。この濠は断面が鋭いV字形で、広いところでは巾6.5m〜10m、深さ3m〜4.5mもある。日本でも初めてその素顔を見せた大環濠である。しかもこの濠の中には弥生人が捨てた大量の「弥生土器」が濠の底部一面に散乱して、「弥生の息吹き」が目の前で、古代そのままに展開しており、見学者の目を奪ったものでした。

 ではなぜ、吉野ヶ里には大環濠が作られたのか?「弥生時代はイネが誕生した豊かな農耕文化の開花の時期で、のどかであり平和な時代であった」というのが古代史のいままでの通説であった。

 しかし中国の史書が僅かに「倭国大乱」と記述しているように、コメの生産が軌道に乗り豊かな経済が進むにつれ、「吉野ヶ里」に集められた豊富な農産物、青銅器、絹織物などを狙う他の「クニ、グニ」からの侵攻があり、争乱が相次いで起こっていたのでしょう。このための防衛施設として環濠は築かれ、この争乱の犠牲者としての「戦士の墓」とも言える「かめ棺墓」が、数多く発掘されています。

この「戦士の墓」とも呼べる「かめ棺」には「首のない遺体」「12本の矢じりを射こまれた遺体」など、多くの戦死者、負傷者の「戦士の墓」が吉野ヶ里で出土しています。北部九州全体ではこのような墓が40例ほど見つかっている。

このような、「戦士の墓」が示すように、この当時の北部九州では戦いがひんぱんに起こっていた「争乱の時代」が続いていたことを物語っています。

 (ロ)倭人伝が語る 古代の素顔

 既に述べたように、北部九州は古代の早い時代から大陸との交流を始めていました。この事実の一端を記載しているのが「魏志倭人伝」です。

吉野ヶ里は「卑弥呼」で知られる「ナゾの邪馬台国」より、約400年程古い時代に開けた「先進的な弥生遺跡」であるが、この倭人伝が伝えた「卑弥呼の居城」に書かれた@「楼観」は「物見櫓」A「柵列」は濠の土塁の上に設けられ、濠の外側には「土塁」を築くとともに、内側には「逆茂木」(さかもぎ)(遺構は弥生中期前半)を並べて、堅固な砦(とりで)を築いていたものです。

 このほか周辺の「邸閣」群(高床倉庫)冢(ちょう、つか)と倭人伝に書かれた「卑弥呼の墓」は吉野ヶ里の「墳丘墓」がそのルーツだと見られています。また卑弥呼の居館を想わせる「堀立柱」の豪華な宮殿跡も「北内郭」に出土しています。

 吉野ヶ里は邪馬台国時代よりも古く、「倭人伝」が言う「100余国」のひとつである。「弥奴国」(みな)または「華奴蘇奴国」(かなそな)であろうという説もある。吉野ヶ里は邪馬台国の時代も続いている「クニ」なので、倭人伝が語った望楼、柵列、邸閣などの「弥生の施設」を日本で初めて再現させ、目の前に披露した弥生遺跡として、注目され、その歴史的価値が評価されて、研究者からも弥生の古代、そして「邪馬台国」の古代の素顔、プロフィールを初めて語った遺跡として、とくに重要視されているわけです。


 (ハ)大陸への門戸、中国との交流基地

 北部九州の大陸との古代交流はまず朝鮮半島を経由した文化の流入が通説として主力だと言われていますが、中国大陸の呉越争覇、楚秦争覇、秦、漢の滅亡など中国情勢の激動に伴って、中国の王侯貴族、専門工人集団の亡命的な倭国への渡来が波状的に数多く続いたものと推定されます。

 そのご後漢の衰退、滅亡によって、中国の支配下から脱しようとする朝鮮半島の混乱もあり、倭国は朝鮮半島をさけて魏だけでなく、江南地方(呉の国か?)との直接交渉のパイプを、紀元170年ごろには持っていたようで、江南の中心地「会稽」の有力者との交渉を示す資料が中国で発見されているとのことで、こんごの研究課題として興味ある事実です。

 倭のクニではなぜ中国大陸との接触を重要視したのか?それはハイテク基地での青銅器、鉄器の原材料の入手が目的であり、次いで中国から政治的な後ろ楯を得ることが必要であったようです。

 このことは大陸系の文物(中国製の銅器、銅剣、銭、絹など)がまず北部九州から出土し、そのご中国、四国、近畿地方から出土することでも、北部九州の先進性を伺える。そのご「鉄器鋳造」などでも優位性を確保するためのいち早い行動でもあった。

 また吉野ヶ里で見落せないのは、環濠集落に次いで物見櫓、宮殿、高床倉庫(いずれも堀立柱建築)、弥生土器、墳丘墓(版築方式)などの建設に当たり、中国大陸の設計、技術、設立、作成についての背景的思想を十分にとり入れて作っていることで、この点でも「吉野ヶ里」の大陸文化の調査研究とその導入のレベルの高さは、北部九州でも群を抜いていることに注目して頂きたい。

 吉野ヶ里の物見櫓はやや誇大すぎるとの批判があったが、そのご唐古、鍵遺跡の土器から三層の中国風建物の刻画が発見され、この物見櫓の先見性はまた大きく評価され、弥生の高床建築のパイオニアとして注目されている。


(ニ)ハイテク基地、弥生のファッション

 

 吉野ヶ里はまず青銅器のハイテク工房として、銅鏡、銅剣も多々製造しているが、とくに「綾杉模様」のある銅矛、そのご鉄製の武具、また戦争の際に「楯」につける呪術的な器具と見られる「巴型銅器」など特異なものがあり、また弥生の絹の先進的な質の高い生産基地でもあった。

 当時の中国は絹の輸出を厳禁した程の重要な特産物で、「国禁の絹」がなぜ北部九州のみに移入されたのか?(弥生の絹は福岡、佐賀を中心に、長崎の一部のみで出土、近畿をはじめどこからも出土していない)これは日中古代文化交流の大きなナゾであり、解明すべき大きな課題である。

 

 いままで吉野ヶ里の「弥生の絹」が発見されるまでは、弥生の衣装は東南アジア、中国南部に見られる「貫頭衣」を中核とした、古代の「貧しい」「地味! ,Aavなものと規定されていたが、この「絹」の発見と、その染色法が予想外に進んでいて、赤や青や黄色だけでなく、「カイムラサキ」(貝)も使って独特の「紫色」などに鮮やかに染められていたことが判った。

 そこで弥生のファッションは、いままでの古代調を一期に覆して、目もあやな錦絹風のファッションに飛躍したのです。倭の「弥生の絹」は上質のものが生産され、3世紀倭国の使者が魏へ朝貢する際に、引出物として使われる程の特産名品となっていた。 


(ホ)弥生人の声が聞こえる 吉野ヶ里歴史公園

 吉野ヶ里遺跡は国の文化的遺産として保存、活用を図るため、2,000年の眠りを経て「吉野ヶ里歴史公園」として平成13年 4月 開園(第1期開園区域)した。「歴史と文化のふるさと」として、展示室、体験学習施設、研修施設のほか「古代の森」「環濠集落」「古代の森」各ゾーンが設置され、楽しみながら古代史を学び、弥生のすべてが判る「弥生パーク」となり、大いに期待できる「弥生のメッカ」として改めて登場しました。

写真提供:佐賀県教育委員会・国営吉野ヶ里歴史公園工事事務所

 

このページのTOPへ

(執筆 − 東アジア古代文化研究会  内藤大典)