あすかは水の都
- 日本には、たとえば利根川を挟んだ千葉・茨城県境の佐原・潮来周辺や濃尾平野の輪中、そして福岡県の柳川など「水郷地帯」と呼ばれる地区がいくつもあります。
- その様な地域と比べて、「あすか」は決して低湿地帯という訳でもないし、大河川の流域平野というわけでもありません。しかしそんなあすかも水とは縁の切れない土地であることは変わり有りません。
- 「飛鳥資料館」に行くと前庭に石造物群が展示されており、そのうちのいくつかには水が流されていたり、噴水の様に水が噴き出していたりします。券売所裏の小さな建物の中に展示されている「須弥山石(しゅみせんせき)」の原理を説明したパネルを見れば貯水槽を高いところに設置してサイフォンの原理で水を噴き出させていることがよく判ります。
- そのほかにも明日香には水を引き込んだ庭園施設や「漏刻」と呼ばれた精密な水時計を用いて時刻を測り、鐘を鳴らして都の人々に告げた施設などがあったことが調査の結果判っています。
- 飛鳥寺の北西に当たる水田地帯は「男女石人像」などが出土した場所で、「石神遺跡」と呼ばれていますが、そこには石組みで整備された人工の池を有する庭園施設があった事が判明しています。
2003年04月11日
- 大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ(作者不詳、19-4261) の万葉歌は、壬申の乱が収まった後、大海人皇子(=天武天皇)が明日香の地に都を据えたことを詠んだ歌とされています。飛鳥の都には宮殿や寺院と共に、池と石造物を有する庭園施設が作られ、国内の豪族や海外からの使節を招いての宴席がもたれていたことが最近の発掘調査の結果などから判明しています。
- 石神遺跡周辺の庭園が最も整備されたのは斉明朝の時期であったとみられていますが、その後も何度か改修が繰り返されたため、発掘調査を行うと異なる時代の遺構が重なり合ってみつかるそうです。庭園がいつ頃まで使われたのかはっきりとは判っていませんが都が飛鳥から藤原京、さらに平城京に移ってからも荒廃することなく維持されたことは確認されています。その後都が京都に移った後の平安時代になってからも庭園として維持され続けたのではないか、とみる研究者もいるとの事です。
- 石神遺跡については奈良文化財研究所(奈文研)によって、ここ十数年間毎年少しずつ場所を移動しながら発掘調査が行われています。
この発掘調査により石神遺跡は何度か再構築されており、その遺構が重なり合った形で地中に埋もれている事が判りました。概ね水落遺跡周辺から毎年北に向かって発掘調査を行い、飛鳥資料館前から雷(いかずち)を経て甘樫の丘の北側を経て橿原神宮方面に至る道路に近いところまで調査が進行しました。この現代の道路が古代の「山田道」とほぼ近い場所にある、(もしくは完全に一致する?)と考えられており、このまま調査を続ければその点の解明も近いのではないかとのことです。
2003年04月11日
- また飛鳥時代はまだ紙が普及しておらず「木簡」とよばれる木片に墨で文字を書いた物が公文書として使用されていました。木材は空気を含む土中に埋蔵された場合、永年の間に微生物によって分解されてしまって原形をとどめなくなってしまうのが常です。
- 石神遺跡では地下水位が高いため、木簡が水分を多量に含んだ泥に埋もれていました。そのため空気が遮断されて、1300年以上も前の木簡が判読可能な状態で出土する事が良くあるそうです。昨年(2002年)の発掘調査でも大量の木簡が埋蔵されている場所がみつかりました。貴重な木簡を破壊しないため、土砂ごとコンテナボックスに入れて研究所に持ち帰り、丁寧に水洗いして木簡を取り出す作業をしているそうです。
- 今までもそのようにして発掘された木簡の中に文字を解読できる物が多数存在したため、当時の政治や経済の状況を知る重要な情報が多数得られたそうです。2003年2月末に奈文研から「日本最古の暦」として持統朝の具注暦の木簡が発見された、という発表がありニュースになりました。なにぶん文献史料の少ない時代のこと、たった一切れの木簡の破片からも従来の学説を一変させる様な発見があることは珍しくないとのこと、これからの研究成果が期待されます。
2003年04月14日
- 飛鳥寺南東の丘の上から、楕円形の凹部や穴をつなぐ溝を掘った平たい石造物が出土し、「酒船石」(岡の酒船石)と呼ばれています。当初この石が何に使われたのか謎で、「どぶろくを流して沈殿させて清酒を造った酒造施設」という見方がされて、その様な名前が付けられてしまった様です。
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その後明日香村教育委員会による同所の発掘調査が進むにつれ、亀形や小判形の石造物をつないで水を流した石敷きの遺構が発見され、これらの石造物が水を利用した庭園施設で有る可能性が高い事が判明しました。
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最近の調査では丘の周辺が石組みによって囲われていたことなどが判明するなど、斉明天皇の両槻宮との関連を示すと考えられる事実が発見され注目を集めています。ところで、日本書紀に持統天皇がたびたび足を運んだとされている「多武峰」が、現在の談山神社のある山の上ではなく、この明日香の小高い丘であるという説を唱える方もあるらしいという情報を耳にしましたが、伝聞の伝聞みたいな情報で確としません。もしこの説について詳しいことをご存じの方がありましたらお知らせ頂ければ幸いです。
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遺跡の調査はもともと大変手間と時間の掛かる仕事である上、建造物の建設など破壊行為を伴う場合以外は緊急性も低いと考えられるためかなかなか予算や人員も大量には投入できず、遺跡の一部で興味深い発見があっても全体の解明には長い期間を必要とするのが実状です。それでも少しずつ調査を続けることで、従来推測でしかなかったことが少しずつ確実な事実に変わってきているようです。
2003年04月11日 最終加筆:2005年01月30日
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1981(昭和56)年12月、飛鳥寺西方の水落遺跡で中大兄皇子が作らせた水時計施設が発掘され、大きなニュースになりました。その後の調査で高度な技術を用いた水時計の詳細が判明し、日本書紀斉明六年の「皇太子、初めて漏剋を造り、民をして時を知らしむ。」の記述を裏付けるものとなりました。
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水時計はいったん高いところに水を貯め、その水を銅製の導水管でサイフォンの原理を使用して導いていました。また貯水槽内の水位が変わると水圧が変化して流れる水量が変化してしまいますので、なるべく一様に流れるよう四段の水槽を順に流れ落ちる構造になっていました。詳細は下記のエキスパートデータをご覧ください。
- 1985(昭和60年)に茨城県筑波郡谷田部町(現つくば市)で開かれた「国際科学技術博覧会」(つくば科学博)の際、政府出展としてこの漏剋の復元が展示されました。その後つくば市中心部にある、つくば科学博を記念した恒久施設の「つくばエキスポセンター」に移設され、万博を記念する他のいくつかの出展物とともに展示されました。(現在も展示されているかは未確認です)
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水落遺跡には発掘で見つかった基壇の復元と説明看板が置かれていますが、建物や復元された水時計はありません。復元された漏剋は飛鳥資料館の常設展示で見ることが出来ます。
参照:飛鳥資料館エキスパートデータ「飛鳥の水時計」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/mizutokei/mizutokei.html
2005年01月30日 最終加筆:2005年01月30日
- 飛鳥川は芋が峠近くに源流を有し、明日香村稲淵を経て飛鳥京の様々な遺跡の付近を北上しています。漏刻の有った水落遺跡近くを通って甘橿丘東側から北麓を回り込んで橿原市を貫流し、磯城郡川西町で大和川に合流て大阪湾に注いでいます。橿原考古学研究所付属博物館に展示されている大きな飛鳥京復元模型を見ると、飛鳥浄御原宮が飛鳥川の屈曲部の内側に接して作られていることが良く判ります。
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飛鳥および藤原京に都のあった時期、飛鳥川は都の人々にとって欠くことのできない存在であり、その季節ごとの風景とそこに込められた都人の思いはたくさんの歌に残されています。万葉集に収録されている歌が20首ほど、さらに時代が下って古今集には「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵と今日は瀬となる」という有名な歌があります。この飛鳥川の流れの変化の激しさは、能の世界では謡曲「飛鳥川」の題材として取り上げられます。
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昭和初期、飛鳥川上流には棚田や畑、雑木林が広がり、集落の人たちが山道を登ってやって来て作業をしていました。2005年の正月にNHKのドラマ「大化改新」をご覧になった方は、番組に登場した明日香のシーンを思い出していただけばお判りいただけると思います。しかしやがて棚田は放棄されて荒れ地や針葉樹の植林地となってききました。植林された針葉樹も十分な手入れがされず荒れた山林となっています。一方、明日香村役場付近から甘樫丘東麓にかけての中流域でもゴミが捨てられていたり土手に雑草が茂っていたりして、かつての飛鳥の都を流れていた清流の面影は失われています。
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もちろん地元の人たちも、このような現状に決して手をこまねいているばかりではなく、美しい飛鳥川を取り戻すべく活動をしているボランティアの方々もいらっしゃいます。しかし一度荒廃してしまった自然を取り戻すのは容易なことではありません。ボランティアの方々の今後の活躍に期待するとともに、住んでいる土地にかかわらず飛鳥を愛する全ての人たちが、自分に何ができるか考えてみるのが重要だと思います。
2005年04月20日
本稿は「飛鳥・藤原京展」図録、ほかいくつかの文献とインターネット上の各サイトの情報、筆者が聴講した講演、現地での実地調査などをもとに筆者なりの理解を述べた物です。なお史実、学説等に関する明白な誤りがありました際は些細な事でもご遠慮なくご指摘ください。
カット:男女石人像。(飛鳥資料館前庭)
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Updated: 2017-06-30 05:22