「吉備池」と「磐余池」
- 最近の飛鳥・藤原京周辺における発掘調査の成果の中で、とくに注目に値する物でありながら、関係者以外ではあまり話題になっていないものの1つに「吉備池廃寺」とよばれる古代寺院跡に関するものがあげられます。
- 吉備池は奈良県桜井市の南西部、天香具山の北東にあたる「吉備」という地名の場所に存在します。この地方によくある農業用水のため池で、南側が出っ張った凸の字形をしています。池の周囲は高さ数mの人工の築堤で囲まれています。
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池の北側は木工所の建物とゲートボール場になっている空き地、東と南は水田です。そして西側には、築堤から見下ろす位置に民家があります。池の南側部分は池を囲む築堤の幅が広くなっていて、その一部が畑と果樹(柿)園になっています。
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この一帯は古くから多くの瓦の破片が発見されていましたが、寺院の跡地であるというはっきりした記録や伝承が無いことから、近在で寺の建築が行われた際に使用された瓦窯の有った場所ではないか、と考えられていました。2002年秋に現地を訪問した際にはその様な内容の事が書かれた説明板(桜井市教育委員会作成)が掲示されていました。
2003年04月10日 最終加筆:2003年12月26日 Natter
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平成11(1999)年春に奈良文化財研究所(以下「奈文研」と略します。)の付属施設である飛鳥資料館で企画展「幻のおおでら 百済大寺」が開催されました。(図録は飛鳥資料館売店および同館WEBサイトで販売されていましたが、2008.5現在売切です。)
- この企画展示が行われた時点では吉備池廃寺の発掘調査は進行途中で、その規模の大きさは伺われたものの、「百済大寺」であると断定するには至っていませんでした。図録では巻頭に吉備池の北東上空から香久山方面を望む航空写真を掲載し「この中に百済大寺の九重の塔がみえたはず」と記しています。また、本文中では吉備池廃寺を有力候補としながらも、香久山周辺のいくつかの遺構を候補として可能性を残す記述がされています。
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その時点では、まだ吉備池廃寺を百済大寺と断定するに足りる確証が得られていなかったため、飛鳥資料館の企画展図録ではやや控えめな表現をしていましたが、担当した研究者はかなり強い確信を得ていたと思われます。この時期にこのような企画展を開催した事自体、吉備池廃寺の正体が間もなく明らかになろうとしているということを広く報せたかったということかも知れません。
2003年04月10日 最終加筆:2008年05月28日 Natter
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去る2002年から03年にかけて奈文研などの主催で全国を巡回して開催された「飛鳥・藤原京展」では、この吉備池廃寺が「天皇家の大寺造営」として取り上げられました。同展の図録ではこの吉備池の地を、今まで場所がはっきりと特定できていなかったため「幻の大寺」と呼ばれてきた舒明天皇の発願で造営した「百済大寺」の場所であると断定しています。
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図録に掲載された写真から、発掘調査では現在農業用ため池となっているこの池の水を完全に干上がらせ、通常水底になっている部分及び池の南側の築堤部分をかなり広い範囲に亘って発掘したことがわかります。この発掘調査の結果、吉備池廃寺の伽藍配置がほぼ確定し、各堂宇や塔の規模も確定的になりました。そこから得られる結論は、当時の文献記録などと併せてこの寺がそれまで「幻の大寺」とよばれていた百済大寺とほぼ断定できるというものでした。
- 奈文研の公式サイトにて吉備池廃寺についての簡単な解説と発掘調査時の空撮写真などを見ることが出来ます。
奈文研公式サイト内、「吉備池遺跡」
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桜井市職員自主研究グループホームページ内の関連記事
http://www2.begin.or.jp/sakura/topix06.htm
2004年09月23日 最終加筆:2005年01月11日 Natter
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吉備池の築堤には大津皇子の辞世の歌といわれる万葉歌「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を…」(3-416)の歌碑が建てられています。地元の古老の中にはここが「磐余池(いわれいけ)」であると信じている方もある様で、そのような伝承があるのかもしれません。
- しかし現在、磐余池はもう少し南側の地であったように比定されており、この伝承は誤りである可能性が高いとの事です。歌碑を建てた方は必ずしもこの地を「磐余池」であると信じて建てたわけではなくて、実際の場所にほど近いところでかつ現在実際に池があるところ、と言う基準で選んだのかも知れません。実際に磐余池のあった場所と比定されている場所にも同じ歌の歌碑があるそうですが、今はその場所には池は跡形すらないそうです。
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そして現在、「百済大寺」がこの場所にあったことがほぼ動かし難い事実となると、ここにその当時池があった可能性はほとんど無くなるとのことです。大津皇子が謀反の嫌疑をかけられて捕らえられてから処刑されるまでの間に、磐余池の畔で鴨を見ながら辞世の歌を詠む余裕など与えられたのかどうかかなり疑わしいという意見もあります。
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そもそも、日本書紀にある大津皇子謀叛発覚から処刑、そしてその後の関係者の処分などの記述には不自然なところもあり、事実をそのまま記していない可能性も考えられます。この歌自体も「悲劇の皇子」の伝説に基づく後世の造作である、という可能性もまた否定できません。真実はまだまだ深い謎の中ですが、池の畔で水面を眺めながら、1300年余の昔に思いを馳せてみるのも心地よいものです。
「吉備池と磐余池の関係」については金谷信之氏の制作された下記のサイトに詳しい記事があります。
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/okym-top.htm 古代吉備王国の栄光と衰亡
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/iwareike.htm 上記サイトの本件関係記事
2005年01月28日 最終加筆:2005年01月30日 Natter
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せっかくこのような貴重な発見のあった吉備池廃寺跡ですから、何らかの形で旧跡として公開できないものだろうかと言うことを考えてみました。いまのところ史跡などの指定もされて居らず、国や自治体が土地を買い上げるという動きが有ると言う話も聞いていません。既に述べたように現在は農業用のため池として使用され、周囲には民家や工場もありますからこのまま観光客を呼ぶような施設を作ることは出来ません。
- 現状では池の築堤上を徒歩で周回することは出来ますが、特に西側は民家の庭を覗き込むような位置になるため、もしこの土地を大勢の観光客が訪れるようになればそのお宅に大きな迷惑を及ぼすことになります。また南側部分には畑と柿園があり、観光客に踏み荒らされては困ります。既に耕作者が立てたと思われる「畑に自転車を乗り入れないでください」と書いた立て札があり、実際に迷惑が及んでいるようです。
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私が現地を訪問した2002年10月時点では、そこが「百済大寺」跡地である旨の説明板等は一切無く、南側の築堤上に桜井市教育委員会が建てた「瓦窯跡と考えられている」という説明板一枚が有ったのみです。「百済大寺」の歴史的意義は専門家の間では十分認識されていることと思いますが、一般への周知度は決して高くないと思われますので、行政が税金を使って土地を買収したりするには、まず周知度を高め史跡などへの指定を受けることが必要と思われます。
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現在のところ、池そのものは農業用水として今後も使われていくと思われ、急に開発されて遺構が破壊される危険があるという状態ではないと思います。しかし南東側では住宅の建設が行われており、場合によっては寺域に掛かる可能性がないとは言えません。吉備池廃寺の発掘調査は多くの成果を得て一段落付いたようですから、早急に史跡指定、利用方法の検討にかかるべきではないかと考えています。
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本記事を執筆している段階において各機関がどの様な対応をしているか特に調査しておりません。また2002年の訪問から2年以上が経過し、現状が当時と同一であるかも確認しておりません。その後の動きなどについての情報がありましたら是非お聞かせください。
2005年01月28日 最終加筆:2005年01月30日 Natter
カット:興福寺五重塔。
カットは本文と直接関係有りません。ブラウザによりカットが表示されないこともありますのでご了承ください。
Latest Update: 2005/01/11
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Updated: 2017-06-30 05:10