●ヤマトタケル・父との軋轢
(景行天皇時代)

景行天皇山邊道上陵 オホタラシヒコオシロワケ(景行天皇)には八十人の子供がいたそうです。
 その中には双児(古事記では違いますが)もおりまして、兄をオホウス、弟をヲウスといいました。ヲウスはまたの名をヤマトオグナといいます。

 さて女好きのオホタラシヒコエヒメオトヒメの姉妹が美しいと聞き、オホウスを遣わせて姉妹を召し上げる事にしました。しかし、オホウスは姉妹を自分の妻にし、大君には偽者を差し出しました。おまけに、食事の席にも顔を出そうとはしません。
 流石に腹に据えかねたのか、オホタラシヒコヲウス
兄のオホウスに、きりきりしゃんと教え諭して来るように。
 と命じます。しかし、何故かその日からオホウスの姿を見かけなくなってしまいます。不審に思った大君は、もう一度ヲウスに尋ねます。
ちゃんと、教え諭したのか?
ええ、とっくにきりきりしゃんです。
どんな風にしたのだ?
厠へ入ろうとする所を狙って、絞め殺し、手足はちぎって菰に包んで投げ捨てました。
 いたって穏やかにそう言うので、オホタラシヒコヲウスという人間が恐ろしくなりました。何とかこの恐ろしい息子を、自分の手を汚さずに始末しようと思ったのかもしれません。大君はヲウスクマソタケル征伐を命じました。何も考えていないヲウスは、自分の力を試せると大喜びし、叔母のヤマトヒメからその衣装をお守りに頂くと、短い剣を懐に出発したのでした。

 クマソに着いたヲウスは、その警戒の厳重さを見て、ある計略を企てます。
 宴の日を待ち、その日にはヒサゴバナに結った髪を女の髪型にし、お守りの衣装を身に着けると、宴の女達の中に紛れ込み、宴たけなわの頃を見計らって、懐の短い剣でクマソタケルを刺したのです。クマソタケルは苦しい息の下で、相手の素性を尋ねます。大君の御子だと知ったクマソタケルはこう言い残したのです。
「猛々しき者よ、汝にタケルの名を譲ろう。」
 ヲウスはこの後、ヤマトタケルと名乗ります。

 帰りの道すがらイズモタケルをもだまし討ちにして平定し、纏向(まきむく)の宮に凱旋したヤマトタケルですが、父の大君は労いの言葉をかけるどころか、東の国を平定せよと命じ、柊の形の刃の矛を授けます。

 ヤマトタケルは伊勢神宮に立ち寄り、斎宮の叔母のヤマトヒメに会います。
 唯一の自分の味方と言ってよい叔母の前で、ヤマトタケルは本音を漏らします。
大君は、私が死んでも構わないと考えているのでしょうか?西の戦から返って間もないのに、今度は東へ行けと仰るのは、どう考えても、私に死ねと仰っているようにしか思えないのです。
 ヤマトヒメヤマトタケルを可哀想には思いましたが、斎宮とはいえ、大君の家臣です、迂闊な事は言えません。嘆き悲しむヤマトタケルに、ヤマトヒメヤマタノオロチの尾から出た剣を授け、もう一つ、
「何か危ない事があったら、この袋を開けなさい。」
 と、一つの袋を授けました。

 さて、尾張の国でミヤズヒメと婚約したヤマトタケルは、相武の国に入り、国造(くにのみやつこ)に歓待されます。相武の国造はヤマトタケルに頼みます。
「この野原の真ん中の大きな沼に住む神は、ひどく荒れ狂っているので、皆が困り果てております。」
 ヤマトタケルがその神を退治しようと、妃のオトタチバナヒメと共に野原の真ん中に入ると、相武の国造は四方から火をかけました、騙し討ちにするつもりです。
 欺かれたと知ったヤマトタケルは叔母から貰った袋の口を開けます。中には火打石が入っていました。ヤマトタケルは剣で自分の周りの草を薙ぎ払うと、火打石で向い火を付け、迫りくる火を防ぎ止めました。
 相武の国造を返り討ちにし、ヤマトタケルは東へ進みました。

 この話から、その場所は「焼津」と呼ばれ、剣には「草薙の剣」と銘がつきました。


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