諡号と言うのは、その天皇の治世に対して死後贈られた評価とも言えます。
例えば、殉死を廃止したイクメイリビコは「垂仁」、家々から立ち上る煙が少ないので三年間の苦役と租税を止めたオホサザキは「仁徳」、自らの血統を顕わしたヲケは「顕宗」と諡されています。
ヲハツセワカサザキの諡号は「武烈」です。「武」はともかく、苛烈とか峻烈とか、烈火のごとくという使われ方をする「烈」と言う字にはあまりいいイメージがありません。
この大君は何故、このような諡になったのでしょうか?
「古事記」に於けるヲハツセワカサザキの事蹟は、実に短いものです。
長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。‥‥とそれぐらいです。
ところが「日本書紀」の方はかなり詳しく書かれています。
「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」
と、まるで「三侠五義」の包拯様のように書かれておりますが、それに続いて
「多くの悪業をなさって、ひとつも善業を行われなかった。様々な酷刑を、親しくご覧にならない事はなく、国民は震い怖れていた。」
と、正反対の事が書かれているのです。ここから先は、はっきり言って、その悪業の数々を記してあるのです。その描写の凄まじさ故か、戦前の「日本書紀」には削除されていたそうです。
まず、平群氏の専横と滅亡についてです。
これは「古事記」でも触れられていますが、時代はヲハツセワカサザキの叔父のヲケの事蹟となっています。
一人の女性を巡って平群臣のシビと大君が争い、その結果、国政を恣にする平群氏を放っておく事は出来ないと、戦を起こしてこれを滅ぼしたと云う記述です。
「日本書紀」に於けるヲハツセワカサザキの方のこの事件の描写は、
・大伴金村連の台頭
・ヲハツセワカサザキの女性不審
の伏線になっております。
その後、即位したヲハツセワカサザキですが、翌年から暴虐大君への道を、まっしぐらに進む事になります。
二年九月 |
妊婦の腹を裂いて、その赤子を見る。 |
三年十月 |
人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。 |
四年四月 |
人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。 |
五年六月 |
人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。 |
七年二月 |
人を木に登らせ、弓で射落とす。 |
八年三月 |
女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、 |
ただ、この辺の描写を読むと、どうも中国の王朝の滅亡時の王(殷の紂王とか)の行動とかぶります。
武烈の次の天皇は継体なのですが、この人の出身は越前の国で、出自と言うのが「ホムダ(応神)の五世の孫」というギリギリの血統なんですね。
後継のいない武烈の姉のタシラカと結婚して、一応、血統の存続を強調しているのですが、武烈と継体の間に王朝の交代があったと見えます。
その際に、継体の正統性を強調する為、殊更に武烈を悪役に仕立てる必要があったのではないでしょうか?
その辺の事を、資料館の会議室でI氏に尋ねてみたので、そのお返事を抜粋させて頂きます。
天武が確立した王朝の歴史的正当性を主張する編纂物が史実(そんな考え方が当時あったかどうか)至上主義をとったはずもありません。
古事記の序文は「邦家の経緯」と「王化の鴻基」を明らかにし「偽りを削り、実を定める」って、現政権に都合のいい話は残し、あたあ抹消したと宣言しておりま。
崇神が 朝鮮半島南部から北九州にはいって王朝を建て、(旧唐書 「日本もと小国、倭国の地を併す」でんな)応神が筑紫から近畿に進出ゆうこってすが、これが当たってるかどうかはさておいても応神の系統は武烈で絶えます。
つぎにどこの馬の骨か定かでない継体が大王になったいいますから天皇家の系譜が 万世一系じゃないことは確かで 紀記の編集委員会だってそれに気付いてたことも明らかでしょう。
にもかかわらずアマテラスから天武まで繋ごうとしたらあっちこっち ウソやら矛盾がでてくるのはいたしかたありますまい。
仁徳を聖帝としその系統のおわりを武烈とすれば中国風レトリックに従って 悪逆非道に記述するのが自然なのかもしれません。
参考までに引き写せば
武烈記
「長好刑理 法令分明 日晏坐朝 幽枉必達・・・
芸文類聚 帝王部 漢明帝
「帝善刑理 法令分明 日晏坐朝 幽枉必達・・・武烈記
「刳孕婦之腹 而観其胎」
呂氏春秋
「刳孕婦 而観其胞」
長々と引用させて頂きました。有難うございます。