史料に見る大津皇子

天武天皇上 丙戌(26日)に、旦に、朝明郡迹太川の辺にして、天照大神をたよせに望拝みたまふ。
(壬申の乱の途中、26日に朝明川のほとりで天照大神を拝んで戦勝を祈っていた)
是の時に、益人到りて奏して曰さく、
(この時に臣下の者が奏上して言うには)
「関に置らひとしめし者は、山部王・石川王に非ず。是大津皇子なり」とまうす。
(「関にいたのは山部王・石川王ではありませんでした。大津皇子でした」と)
(中略)天皇大きに喜びたまふ。
(天武天皇は大変喜ばれた)

天武天皇12年 2月朔(1日)に、大津皇子、始めて朝政を聴しめす。
(大津皇子が初めて政治に参加した)

朱鳥元年9月 丙午(9日)に、天皇の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。
(9月9日、天武天皇が崩御された)

辛酉(24日)に、南庭に殯す。即ち発哀る。是の時に当りて、大津皇子、皇太子に謀反けむとす。
(9月24日、南庭で殯が進んでおり、号泣しているときに、大津皇子、皇太子に謀反を企てた)

朱鳥元年 冬10月の戊辰朔己巳(2日)に、皇子大津、謀反けむとして発覚れぬ。
(10月2日、皇子大津の謀反が発覚した)
皇子を逮捕めて、併て皇子大津が為に誤かれたる直廣肆八口朝臣音橿。小山下壹伎連博徳と、
大舎人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多須・新羅沙門行心、及び帳内礪杵道作等、30餘人を捕む。
(皇子大津に従った者30人余りを逮捕した)

庚午(3日)に、皇子大津、訳語田の舎に賜死む。時に年は24なり
(10月3日、皇子大津、訳語田の家で亡くなられた。年は24歳であった)

妃皇女山辺、髪を被して、徒跣にして、奔り赴きて殉ぬ。
(正妃の皇女山辺は髪を振り乱し、裸足で走り出て殉死した)

見る者皆歔欷く。皇子大津は、天渟中原瀛眞人天皇の第3子なり。容止墻くさが岸しくして、音辭俊れ朗なり。
(見る者は皆すすり泣いた。皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で)
天命開別天皇の為に愛まれたてまつりたまふ。ひととなる長に及りて辧しくして才學有す。尤も文つくること
(天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み)
筆を愛みたまふ。詩賦の興、大津より始れり
(とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる)

11月の丁酉の朔壬子(16日)に、伊勢神祀に奉れる皇女大来、還りて京師に至る
(11月16日、伊勢神宮の斎宮であった皇女大来は、同母弟大津の罪により、任を解かれ京師の帰った)

朱鳥3年、乙未(13日)に、皇太子草壁皇子尊薨りましぬ。
(夏4月13日、皇太子草壁皇子尊が薨去された)

ーby『日本書紀』ー




3、大津の皇子
 皇子は浄御原の帝の長子なり。状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。
壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、
法度に拘らず、節を降して士を礼す。
これによりて人多く附託す。時に新羅の僧行心といふものあり、天文ト筮を解す。皇子に詔げて曰く、
「太子の骨法これ人臣の相にあらず、これをもって久しく下位に在るは恐らくは身を全うせざらん」と。
よりて逆謀を進む。この誤に迷ひてつひ遂に不軌を図る。ああ嗚呼惜しいかな。
かの良才を蘊みて忠孝を以て身を保たず、この竪に近づきて、卒に戮辱を以てみづから終る。
古人交遊を慎むの意、よりておもんみれば深きかな。時に年24。

(訳)大津皇子は天武天皇の第1皇子である。丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である。
幼年の時より、学問を好み、知識が広く、詩や文をよく書かれた。
成人すると、武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った。
性格はのびのびとし、自由に振舞って、規則などには縛られなかった。
高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く待遇した。
このために皇子につき従う者は多かった。当時、新羅の僧で行心という者がいた。
天文や占いをよくした。僧は皇子につげてこういった。
「皇子の骨柄は人臣にとどまっていてよいという相ではございません。
長く下位にとどまっておりますなら、恐らく身を全うすることはできないでしょう」と。
この僧のまどわしに皇子は迷われ、とうとう謀反の行為に出られたのである。ああ惜しいことよ、
立派な才能を心に抱きながらも、忠孝の道を守って身を保つことをしないで、
この悪い小僧に近づいて死罪にあい、一生を終えられた。
古人が友人との交際を慎しんだ心は、この一件によって考えてみると深い意味が読みとれる。
亡くなられた時の年は24歳であった。

ーby『懐風藻』ー


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更新日:2002,10,15