大伯皇女は、飛鳥時代の皇室の人です。
斉明天皇7年(661年)1月8日、朝廷をあげて一向が白村江の戦いへ向かう最中に
岡山県の大伯海で生まれました。
父は天武天皇、母は大田皇女(天智天皇の娘・持統天皇の同母姉)です。
大伯皇女は当時の天智・天武系の多くの皇子・皇女のうちで生年月日
がはっきりわかっている唯一の皇女です。
弟の大津皇子も福岡県の那の大津というところで生まれているらしいところから
姉弟ともに地名から名付けられていることがわかります。
当時、皇族の名は乳母の名から付けられたらしいところをみると、
彼らには乳母がいなかった可能性がある、かもしれません・・。
大伯皇女の悲劇は、母、大田皇女の死に始まります。
大伯皇女7才のときでした。その後は、
弟・大津皇子とともに天智天皇に引き取られ、可愛がられていたようです。
初代斎宮
大伯皇女は、実在する初代斎宮です。壬申の乱の戦勝を感謝するために選ばれました。
しかし、その政治的意味は、女帝候補を減らす目的があったと思われます。
大伯皇女は、天武天皇と天智天皇の血をひく、最高の地位にいました。
大伯皇女が有力な血筋の皇子(高市皇子など)と結婚すると、
大津皇子の強力な後ろ楯になってしまいます。
そうすると草壁皇子(讃良皇女の子で大津たちの従兄弟にあたる)
の皇太子の地位が危うくなるのです。讃良皇女(後の持統女帝)
にとって格好の制度であっただろうと考えられます。
大伯皇女は泊瀬というところで潔斎をし、伊勢に赴いています。
大伯皇女のその後
大伯皇女は13歳のときにト定(選ばれ)され、26歳で飛鳥に戻ってくるのですが、
その退下の理由は天武天皇崩御だけではなく、「大津皇子刑死事件」によるものでした。
「大津皇子刑死事件」とは、686年(朱鳥元年)天武帝の死後、
殯(もがり=お葬式)の最中に大津が謀反を謀ったとされ、
10月2日に発覚、3日に死刑にされた事件です。
身内に不幸があった場合、斎宮の任は解かれるのです。
大伯皇女は母を幼くしてなくしたばかりではなく、
父と弟を同時に亡くすという不幸にみまわれます。
天涯孤独になった大伯皇女はその後どうしていたかは全く不明です。
個人的な想像ではその後、大津皇子を二上山に葬り、
その子粟津王を育て上げたのではないかと思います。
父天武(大海人vs大友)と弟大津(草壁vs大津)の皇位継承争いを目の当たりにし、
嫌な目に合ってきた大伯皇女はそれを二度と
繰り返さぬよう粟津を育てたのではないでしょうか。
その後、『豊原氏系図』によると粟津王は豊原氏に繋がっていくようです。
大伯皇女は、大宝元年(701年)12月27日に亡くなったという記事が出ています。
41歳になっていました。彼女の人生をみると可愛そうでなりません。
それでも与えられた中で精一杯生きたであろう
彼女の強さや哀しさが万葉集に詠まれています。
夏見廃寺
大伯皇女ゆかりの寺が名張にあります。
父・天武天皇の菩提を弔うために作られた昌福寺が夏見廃寺と考えられています。
夏見廃寺は、出土遺物から7世紀末から8世紀にかけて作られたと考えられています。
夏見廃寺を建て父だけでなく大津皇子の菩提を静かに弔っていたのかもしれません。
今は夏見廃寺跡は、国史跡に指定され、夏見廃寺展示館では「天上の虹」のアニメ
など様々な展示がされています。
|