見つかった工房関係の道具類
これらの遺物のはとんどは、発掘区東側に堆積した産業廃棄物の層と一部の炉跡から出土したものである。これらを生産物ごとに記すと次のようになる。
◎全属の生産と加工に関するもの---鉄と銅の塊、金くそ(鉱滓)、坩堝とその蓋、とりべ、鞴の羽口、鋳型、砥石、銅製品、鉄製品、木製の雛形(様)、刀子などの柄。
◎ガラスの生産と加工に関するもの---石英塊、水晶、方鉛鉱、ガラス用坩堝と蓋、鞴の羽口、小玉用鋳型。
◎漆器の製作に関するもの---漆容器(項恵器の壺、項恵器・土師器の杯・皿類)、漆を絞って漉すための布、漆篦、漆刷毛。
◎その他---多量の木炭、加熱をうけた切石や板石があり、炉の障壁や作業台に使ったもの、木工具の柄類、製品の供給先又は素材の提供者を記した木簡や、出来上った製品に付けた付札。出土した木炭の多くはカシ類を使用したものである。
まず金属器の生産に関しては、鉄や銅の塊とそれらが溶けて流れ落ちた鉱滓がある。出土した鉱滓は総量450kgにもなる。
坩堝には丸底をした砲弾形のものと椀形のものの2種があり、どれも外面には著しい加熱の跡がみられる。砲弾形には大型(図6-9)と小型(図6-8)とがあって、いずれも口の一部をえぐり込んで片口としている。内面はなめらかな放物線を描いており、型にはめ込んで作ったものらしい。坩堝を形作った粘土には高温を受けても壊れ難いよう石英粒を多量に混ぜた粗いものが使われているが、内側はきめ細かい真土が塗られている。この坩堝には、分厚い円板の上部につまみのつく蓋(図6-7)がのるらしい。椀形の坩堝(図6-6)は、前者より薄く作られ、内面には真土を塗らないが白色化しており、外表は黒色に変化している。片口になるか否かは不明だが、蓋はのるらしい。以上の坩堝は青銅を溶かすのに使ったようだ。溶けた青銅を鋳型に注ぐための「とりべ」は、粗い粘上で作り、椀形をした厚手のもの(図6−4・5)と、椀形をした土帥器同様のつくりで薄手のもの(図6-1〜3)の2種がある。いずれも片口になっており、銅やカラミが付着している。約200点出土しているが、厚手のものは少なく、薄手には、ほかに、土師器の甕を半分にわって転用したものや、須恵器の杯や壺を利用したものまである。
炉の炭火に風を送って、高温を得るための装置として鞴(ふいご)がある。わが国古代の鞴がどのような形態のものであったかは不明であるが、革袋の一端に空気を流入させるための弁をつけた口を設け、他端に送風のためのやはり弁をつけた出口を設けて、管で空気を導き火に風を送る仕組みになったものである。鞴はこの革袋を圧迫したり、広げたりして空気を送る道具で、この送風のための管の先端部が羽口である。鞴の羽口は総数520点以上出土している。粗雑な粘土で作られた長さ15〜20cmの管で、通気孔の内計は2〜2.5cmである。火に接する一端の外形は細く作られ、そこが高熱を受けてガラス質になるほど焼けただれたものが多い。
鋳型のなかでもっとも珍しいのは海獣葡萄鏡の型(図版)で、外周に近い部分の文様が彫られた細片で、復原すると直径20cm以上になり、この種の鏡としては大型品である。暗灰色をしたきわめて徴細な粘土が用いられている。他に製品のわかるものでは、仏像型がある。幅が5cmある板仏の型で、菩薩立像の原形に細粒の粘土を押しつけて作ったものである。背面は、長方形で素文の板状をした形を合わせたうえ、別の粘土で封じ込んで、脚部から溶銅を流し込んだ痕跡が残っている。このほか、製品の種類がわからない鋳型の断片がいくつかあるが、土型が多く、若干の石型(図6−21・22)もある。砥石には大小さまざまなものがあって合計990点ばかりが出土している。比較的大きいもので据えつけて使用する「掘え砥」は少なくて、小型で自由に持ち運びができる「待ち砥」が多い。持ち砥には、三角形や多角柱形になるまで使い込んだものが多く、この作業場で製品を仕上げるのに工人達が一生懸命に働いた様子がよくうかがえる。砥石の石材は砂岩のものが多く、他に、片岩・石英斑岩、そして粘板岩・花崗岩・榛原石が使われている。製品となったもののうち、銅は青銅製(図4-1〜19)で、板金から作った人形(7.9cm)、円環、針、頭が環状になった釘や方頭釘ピンセット、魚々子文様の板、銅線がある。このほか、製作過程で出来た切りくずなどもたくさん出ている。鉄では、頭が方形や円形の釘、鎹、刀子、鏃、鑿、裏面に文様のまったくない径4.4cmの鏡などがある(図4-20〜37)。
以上のような金属器を製作する際に、形の見本として、木で作った各種の雛形(様)がある(図5-1〜24)。この木型には様々な形をした鏃、鎌、刀子、釘、錠などを通すための方孔か九をあげた釘(閂用か)、釘の台座となる座金型などがある。このような木型を作るのに工房で用いられた刀子などの加工具のほか、実際に出来上った刃先につけるためとみてよい刀子や鑿(のみ)の柄も出土している。なかには黒漆を塗った柄(図5-25〜27)もある。
つぎにガラスの生産と加工に関する諸道具をみてみよう。ガラスそのものの原材料と思われる良質の石英塊や水晶、方鉛鉱などが出土しており、鉱石からガラスそのものを作っていたとみて良いだろう。
このガラスを溶かすのに用いた専用の坩堝(図6-14〜17)も砲弾形であることと、石英粒を多く含んだ粗い粘土で出来上っていること、そして、型作りであることは金属用と同様である。しかし、底部の先端が乳頭状に出張っていることが異なり、ガラス用坩堝の特徴となっている。外面が斜交格子の叩き目で仕上げていることと、さらに、内面は緑色、赤褐色、黄褐色、乳白濁色のガラスがべったりとついているので、すぐにそれとわかる。この坩堝は約90個体出土しており、口内径の寸法と容量の違いから、大・中・小の3種類にわけられる。大は内径約8.5cmで480〜330cc、中は内径約6.5cmで250〜160cc、小は内径約5.5cmで120cc位である。これら3種類の坩堝にはそれぞれの大きさに見合った蓋がつく。70個ばかり出土している蓋は、周囲が切り落された円盤状で、上面中央に向って高くなった笠形をなし、中央部には隅丸長方形に凸出したつまみがついた形をしている。蓋の下面にガラスが付着しており、坩堝口縁の痕跡がよくわかる。ガラス用の坩堝がこれほどまとまって出土したのは、始めてである。ガラス専用の炉の鞴もあったと思われるが今のところ、金属炉のものと区別は出来ない。ガラス用の鋳型では小型製作に用いる型(図6-18〜20)で、粘土板の片面に直径5mm前後の半円形の凹みを多数並べたものである。その半円形凹みの中央には径1mm未満という、本当に細かい小孔が各1個すつ粘上板の下面に到達するまであけられている。恐らくこの小孔に細くてみじかい鉄線を差し込み、そこへ溶けた銅を流して上面は鋳型を用いずにガラスの表面張力で自然に丸く盛り上るのを利用して、小孔の聞いた丸玉を作ったものと考えられる。この様な鋳型が3個体出土しているが全形はよくわからない。同様な断片は天埋市の布留遺跡や橿原市の四条大田中遺跡、平城京跡でも出土している。
以上のような火を使う工房とは違って、漆器の製作に関する工房もこの工場団地の敷地内にあった。なぜなら漆に関する道具類も、金属やガラス関係の道具類と同じ廃棄物層から、かなりの数が出土しているからである。ただし、今回の調査地のなかでは、漆に関係する工房だと積極的にいえる遺構は見つかっていない。恐らく付近にまだ眠っているのであろう。
まず、漆を溜めておくための容器としで、須恵器の壺がたくさん出ている。これには、漆を産地から運んで末るための入れ物として使ったものがあり、飛鳥地方では見かけないつくりの壺があることで、そのことがわかる。また工房内で漆を保管しておくために使った漆壺もある。実際に使用するときは、漆壺から必要量に応して須恵器や土師器の杯や皿などに小出しにしていた。そのようなパレットも多く出土している。樹液としての漆にまざった夾雑物を取り除くために、漆を包んで絞るのに使った漉布(こしぬの)は麻と絹があり、ともにぞうきんのように大きい。漆を塗るのに用いた篦や刷毛もあり、すべて黒漆が付いている。
以上工房で制作するの使用した道具類について述べてきたが、最後に工房の年活で日常的に使う身の回り品について少し記しておこう。食器としての須恵器や土師器もたくさん出ていて、この工房が7世紀の中頃から8世紀始めにかけて継続的に操業していたことを物語っている。また、多くの遺物に混ざって、木札に文字を記した木簡が100点余り出土している。(図版)これらの中には、ここでの遺構の性格---すなわち工房関係の人名や製品名を書き記したものがある。分類すると次のようである。
◎出来上った製品に工人名を付して出荷した。
◎製品名を記したもの。
◎製品の供給先や原料の提供元か複数ある。
◎原料などには、税として徴収したものだげでなく、官の物品をも用いている。
これらは金属製品に関する物ばかりであるが、ガラスや漆器の工房も存在していたにもかかわらず、それらに関わる内容の木簡はいまのところない。
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