三侠五義・其の四 顔生蒙冤(顔査散の冤罪)・1

 顔家の主人、顔査散は老僕の顔福が無事に帰ってきたのを見ると、大層喜んだ。顔福から林の中での出来事を聞き、借りてきた衣服や銀子を受け取ると、休息するように言った。
 次の日、顔査散は母の鄭氏の部屋へ行き、上京の事を相談した。鄭氏は戒めた。
「あなたが上京して親戚の世話になり、金榜に名を挙げる事ができれば、亡くなった父上の様に、清廉潔白な官吏になるのですよ。」
 顔査散は何度も頷いた。
 その時、老僕の顔福が尋ねた。
「若様はお一人で上京されるのでしょうか?」
「家には他に人がいないのだ、お前は母上によく仕えていておくれ。」
 顔査散の言葉に、顔福は昨晩の出来事を夫人に話した。聞いた鄭氏は心配で堪らなくなった。

 三人が相談していると、門を叩く音がした。顔福が急いで開けに行くと、一人の小童がいるので尋ねた。
「誰か探しに来たのかい?」
 小童は笑って言った。
「僕は金の若旦那様の所の者ですよ、昨日あなたにお酒を注いだでしょう。」
 顔福は慌てて小童を家の中に入れた。小童は顔査散を見て言った。
「私めは雨墨と申します。私の主人は、私めが若君の上京のお世話をすれば、番頭さんは家で奥様のお世話ができるだろうと申されました。」
 鄭氏と顔生はそれを聞いて大層喜んだ。
 顔査散は雨墨に荷物を預けると、母に別れを告げた。鄭氏は自ら認めた手紙を顔生に渡して言った。
「京師の祥符県に着いたら双星巷を尋ねなさい、そこが叔父さんの家です。」
 雨墨は傍らで答えた。
「そこなら以前に行った事があり、道も分かります。」
 主従が出立し、わずか一、二十里ばかりの所で、顔査散の両足は疲れて痛くなった。雨墨は宥めて言った。
「急ぐ事はありませんよ、心を穏やかに、物見遊山の気分で景色を楽しんでいれば、いつしか道程が捗っているものなのです。」

 顔査散は雨墨に付いて一程(駅站から駅站間)進み、日暮れ時に双義鎮に着いた。雨墨は宿泊する店を探し、顔生に知らせた。
 店の者は主従二人を客室に案内し、熱い茶と晩餐を薦めた。雨墨は路銀を節約する為に、些かの焼餅で結構だと断った。
 二人が焼餅を待っていると、外から怒鳴り声が響いてきた。
「この店は人を馬鹿にするのか?私を泊めないのなら、こんなクソ店、火をつけてやる!」
 店主が話すのが聞こえた。
「お客様、こちらはもう満室なのです、他所をお願いします。」
 顔査散が声を聞いて外に出ると、怒鳴っている男が言った。
「ねぇ、君、どう思います?奴らは私を泊めないばかりか、追い出すんですよ、酷い話じゃありませんか。」
 顔生は男に勧めた。
「もしお嫌でなければ、私達と一緒の部屋に泊まりませんか。」

 顔査散はその男と部屋に入って座ると、尋ねた。
「ご尊兄のお名前は?」
「私、姓は金、名は懋叔と言います。」
 顔生もまた自分の姓名を名乗ると、尋ねた。
「金兄は食事は済まされたのですか?」
「いや、まだです。顔兄、一緒に乾杯しませんか?」
 金生は店の者を呼び、机の上一杯に酒や料理を運ぶように言った。運ばれた物を見て、まだ足りないと思ったのか、焼いた大きな鯉を一匹追加した。
 金生は箸を手にすると、魚を一切れ挟んで、顔生の碗に入れて言った。
「魚は熱いうちに食べるといい、冷めると生臭くなる。」
 自分で杯を捧げ持ち、飲みながら、大盤振る舞いの魚を賞味した。
 金生は何杯か酒を飲み、碗一杯の飯を食べると、立ち上がって呼び掛けた。
「私はお腹が一杯だ、顔兄、どうぞ、ごゆっくり。」
 と、一人で奥の部屋へ行ってしまった。

 顔生が食べ終わって奥の部屋に入ると、金生は寝床で横になって高鼾で眠っていた。破れた靴の片方は地面に落ちており、もう片方は足に履いたままである。その様子を微笑ましく見た顔生は、靴を脱がせてやった。
 次の日、起床した金生は、店の者に会計をするように言うと、自分はお金を払わずに、破れた靴を引きずり、肩で風を切って出て行ってしまった。
 顔生は雨墨に勘定を済ませるように言うと、旅を続けた。雨墨は口を尖らせた。
「若旦那様は何であんな無頼の徒をこんなに厚く持て成すんですか?あの人は自分が奢るような口ぶりで、私達に十四両も散財させたんですよ。」
 顔生は答えた。
「金様は優雅の中に英雄の気概を持ったお方だ、凡庸な人ではないよ。」

 一日歩いて、二人はとある宿屋に着いた。落ち着いた処に、店の者が部屋へやって来て、尋ねた。
「旦那様の御姓は顔様とおっしゃいますか?外に金様という方が訪ねて見えています。」
 顔査散は急いで言った。
「すぐに、お通しして下さい。」
 傍らの雨墨は内心で絶叫した。
「あの人はまた只食いして旨い汁にありつくつもりだ、けど、今晩は金持ちの振りはさせないぞ、逆に僕がやり返してやる。」
 と、自分から進んで金懋叔旦那様を門まで出迎えた。
 雨墨は昨夜の手順で、机の上一杯に酒や料理を注文し、大きな鯉を一匹追加し、金旦那には慇懃に酌をした。金生は満足げに言った。
「顔兄のとこの小さい番頭さんは私がやった様にやってくれる、こんな風に持て成してくれるのなら、私も気遣いしないで済むよ。」

 次の日の朝早く、雨墨が顔査散の洗顔の用意をしていると、奥の部屋から金生が目を覚ましたらしい欠伸の声が聞こえた。雨墨は皮肉っぽく言った。
「金様、夕べの食事やお泊まりのお代をお持ちでないのなら、私達が払いますから、お先にどうぞ。」
 金生は奥の部屋から出て来た。
「そうかい、では私は先に行かせてもらうよ。」
 言い終わると、破れた靴を履いて、一人で去って行った。
 顔生は金生が行ってしまったのを見ると、雨墨に勘定を済ませる様に言った。すると雨墨は
「また奢ってしまったので、お金がありません、それどころか四両足りません。」
 と言う。顔生は答えた。
「それでは衣服を質に入れて、勘定を済ませ、残りを路銀にしよう。」
 雨墨は恨めしく言った。
「今日は大丈夫でも、明日はどうするんですか?」
 支払いを済ませて、二人は宿を出た。顔生は不機嫌な雨墨を見て言った。
「済んだ事だよ、今晩からはお前の手配通りにするよ。」
「どうして金様は、私達に付き纏って、只食い只飲みするんでしょうか?」
 雨墨の言葉に、顔生が言った。
「あの人は大らかな読書人だから、細かい礼節なんかにはこだわらないんだよ。」

 その夜、二人は特別小さい店を探し出した。顔を出した店の者がまたやって来て言った。
「金様と云う方がいらっしゃいました。」
 その言葉が終わらないうちに、金生が門から入って来て言った。
「私と顔兄は三世の縁で結ばれているようだ、またお会い出来た。」
 顔査散は礼をした。
「私と貴下には確かに浅からぬ縁があるようですね。」
 顔生の言葉に、金生が、
「それでは兄弟の誓いを立てようじゃありませんか、隣の大きな店に行きましょう。」
 そう言って、顔査散を連れて行ってしまったので、雨墨は内心で地団駄を踏んだ。
 三人が店内に入ると、金生は三牲のお供物の準備をする様に言い付けた。兄弟の誓いで、顔生が金生より二歳上だと判って、上座に座る事となり、金生が下座に着き、二人は食べたり話をしたりと、大層楽しんだ。

 次の日、目を覚ました顔査散が応接間で口を漱いでいると、雨墨が尋ねた。
「旦那様、この店の酒代食事代はどうやって支払いますか?」
 丁度その時、簾を掲げて金生が部屋に入って来た。
 金生は店の者に請求書を見せる様に言ってから、顔生に向かって言った。
「仁兄、そんな貧しい身なりで上京して親戚に身を寄せ、嫌がられたりするような事はありますまいか?」
 顔生は溜息を付いた。
「私も本当は行きたくはないのですが、母の命でもあり、叔父叔母にも些かは挨拶せねばなりません。」
 丁度この時、外から一人の男が入って来た。男は金生に叩頭した。
「うちの旦那様から四百両の銀子をお渡しするよう命じられて来ました。」
 男の言葉に金生は言った。
「君の所の旦那様の御好意だ、二百両は残して、半分を頂きましょう。私に替わって礼を申し上げてくれ。」
 金生は顔生に衣服の質札を出すように言うと、男に質札と、一錠の銀子を渡して言った。
「興隆鎮へ行って衣類を請け出して来てくれないか、余ったお金は君の物にしていい。」
 男は金入れ袋を出すと、金生に礼を言って出て行った。

 金生は又二錠の銀子を取ると雨墨に手渡して言った。
「君にはこの二日間辛い思いをさせたからね、御褒美だよ。君は私を騙りなのかどうかと思っていたんだろう。」
 言われて雨墨の両頬は真っ赤になり、何度も叩頭して礼を言った。
 金生は顔生に替わって宿を大きい方に変えると、真っさらの衣服靴帽子を一揃い買い与え、一頭の駿馬を用意し、残った百と幾らかの銀子を全て顔生に渡した。顔生は再三断ったが、断り切れずやむなく受け取った。
 翌朝早く、金生は顔査散に別れを告げた。
「仁兄、御身をお大事に。私は先に行きます、都でまた会いましょう。」
 顔生は別れ難い気持ちで、金生を門から見送った。
 顔生は雨墨に荷物をまとめる様に言うと、雨墨に驢馬を借りてやった。主従二人は宿を離れ、双星橋を目指した。

【閑話休題・10】 科挙について
 今回の主人公、顔査散も受験する科挙について説明したいと思います。‥‥と、言っても、私自身、通り一遍の事しか知らないので、辞書の抜粋です。

 起源は漢。隋・唐に始まり、清末まで続いた官吏の登用試験で、科甲科第ともいう。
 清代では、経学や詩文を修めた者が、まず、自分の郷里で
州考あるいは県考を受験する。合格者は童生と呼ばれ、次に府考を受験する。これに及第すると、各省の教育行政の首脳者である学政学台)から院考を受ける。
 
院考は三年に一回行われ、これの合格者は秀才と呼ばれ、府学県学州学)の入学を許可される。その入学の事を進学といい、入学者を生員と言い、同年の生員同士を同案と言う。生員は次の郷試を受ける前に、科考科試と呼ばれる予備試験を受ける。
 
郷試は三年に一回、仲秋八月に、一省の生員を省城に集めて、中央から派遣された考官の手で行われる。科目は四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)・五経(易・書・詩・礼・春秋)・作詩論策などであった。試験場には貢院と呼ばれる常設の建物があった。試験は三場に分かれ、各場は三日間で、第一日夕刻より始めて三日目の朝に考巻(答案)を提出して退場する。(合計九日間)
 
郷試に合格すれば挙人の称号を得る。挙人の第一位を解元といい、同年度の合格者同士を同年と称する。合格者の氏名を発表する事を発榜出榜放榜という。
 会試は三年に一回、郷試の翌年の陽春三月に首都で行われる。科目は郷試と同じだが、程度は高くなる。郷試と同じく三場九日間に渡り、貢院で行われる。会試合格者を貢士と称し、その首席を会元と呼ぶ。
 
貢士は直ちに殿試を受ける。これは天子自ら貢士の席次を決める試験で、一日で終わる。この殿試を経て始めて進士の称号を受ける。進士の首席三名を第一甲とし進士及第の資格が与えられた。それに次ぐもの(定員なし)を第二甲とし進士出身の資格を、残りを第三甲とし同進士出身の資格を与えられた。第一甲の第一位を状元、第二位を榜眼、第三位を探花と別称した。
 
進士の氏名は黄榜に記載して皇城の門外に掲げられたが、これに名を列ねる事が、読書人として最も名誉な事であった。
 
挙人の翌年進士に合格する事を連捷といい、郷試会試殿試全てで首席を占める事を三元といった。

 顔査散は都に受験(会試)に行くので、現在は挙人という事になります。
 あ〜、書き写しだけで、勉強になったぁ!


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