峠に立つ大きな楊の樹が見えて来た。
乗り合い馬車とは名ばかりの大きな荷車の上で、12歳のユージン・クロフトはかじかむ手に息を吹きかけながら、1年ぶりの故郷に思いを馳せていた。
――煉瓦作りの小さな家。父さん、母さん、姉さん、小さな弟。
――皆、変わっていないだろうか?
――弟は僕の事を忘れてやしないだろうか?
膨らむ期待と少しばかりの不安で痩せこけた胸を一杯にし、少年は大きな楊を見詰めた。
――あの樹の向こうに、僕の家がある。
「坊や、働きに行っていたのかい?」
ユージンの隣に腰掛けていた中年の女が声をかけた。ユージンはこっくりと頷く。
「小さいのに偉いねぇ。」
馬車にはユージンと女と二人の農夫と、もう一人、がっしりした体格にマントを付けた初老の男が座っていた。農夫の一人が尋ねた。
「坊主の家は遠いのかい?」
「あの峠の大きな木の向こうです。」
ユージンは近付いて来た楊を指差した。
「ほう、じゃあ、もうすぐ‥‥」
男の言葉が途中で止まった。その目は大きく見開かれている。
「な‥‥」
男の指先は木の上を差している。
「何だ、あれは?」
ユージンも茫然とそれを見た。
最初、大きな鳥かと思ったそれは、蝙蝠の翼のようなモノをはためかせて、木の上に浮かび上がって来た。
しかし、それは鳥ではなかった。遠いので定かには分からないが、人のようである。一対の脚と一対の腕、そして肩から生えたもう一対の翼を持つ生き物。
「<貴族>か?」
人にして人にあらざるもの‥‥<貴族>。<貴族>は人には危害を加えない。だが‥‥
「いや、あいつは<妖魔>だ。」
初老の男が身を起こした。
「しかも最悪の奴だ。あいつが<魔の手>だ。」
男の言葉に大人達の顔色が変わった。
「‥‥殺される!」
「早く、隠れないと!」
「いや、顔さえ見られなければ、あいつは何もしないらしい。」
男はそう言いながらも、マントの下から弩を取り出した。
「あんた、<狩人>か?」
農夫が尋ね、男――<狩人>は頷いた。
「万が一の為にな、だが、奴にこんな物が通用するのかな?」
大人達の様子にユ−ジンは胸騒ぎを覚えた。
「おじさん‥‥、」
「なんだ?」
「あいつが出て来たの、僕の家の方角なんだ。」
「‥‥。」
「僕のお父さんやお母さん、無事だよね?」
「‥‥。」
「お姉ちゃんも大丈夫だよね?」
「‥‥。」
「弟なんて小さいんだよ、去年生まれたばかりなんだ。」
<狩人>はユージンからゆっくりと目を反らした。ユージンは泣きたくなってきた。
「‥‥大丈夫って、言ってよ!」
「‥‥多分、いや、きっと、駄目だろう。」
<狩人>の言葉に、ユージンはへなへなと腰を落とした。
「だが、まだ絶対と言うわけではない。親父、急いでやってくれ!」
<狩人>が御者に声をかけると、馬車は少し速度を上げた。
家は廃虚と化していた。
まるで竜巻きにでも遭ったかの如くに、無造作に投げ飛ばされたかのような屋根、何か大きな力で薙ぎ倒されたかのような壁、扉は引きちぎられていた。
暖炉から立ち上る細い煙の筋が、つい先刻までは家人が生活を営んでいた事を知らせていた。
「お父さん!お母さん!」
返事はない。
「お姉ちゃん!」
その時、微かに人の動く気配がした。
「お姉ちゃん?」
そこはかつて寝室だった辺りだろうか?崩れた壁の下から、人間の呻き声がした。
「生きている‥‥奇跡だ!」
<狩人>が急いで、けれども慎重に瓦礫を取り除き、1人の少女を引っ張り出した。
「お姉ちゃん!」
一目見て、もう、駄目だとユージンには解った。腹部にひどい裂傷を負っている。
「どんな奴だった?」
<狩人>がユージンの姉に尋ねた。姉はぼんやりと目をあけ、定まらない視線のまま答えた。
「‥‥大きな‥‥翼、あれは‥‥腕?」
「やはり<魔の手>か。」
<狩人>は唇を噛んだ。ユージンは辛そうで苦しげな姉を見るのが忍びなかった。
「‥‥あの人‥‥お父さんやお母さん、弟を‥‥あの大きな手で掴んで‥‥啜ったの。」
「啜った?」
「‥‥そう、啜った‥‥生きたまま、啜ったの。‥‥悲鳴が‥‥お父さんお母さんのすごい悲鳴が‥‥。」
姉の顔が恐怖で歪んだ。
「‥‥怖い‥‥本当に、何て恐ろしい。‥‥人があんな風に死ぬなんて‥‥」
「安心しろ、もう奴はいない。」
「‥‥あの人、あたしを見たの‥‥とても悲しい‥‥目をしてた。」
その時、姉はどこか夢見るような表情になって続けた。
「‥‥恐ろしいひと、でも‥‥物凄く‥‥美しい。」
溢れるように血を吐き、ユージンの姉は動かなくなった。