十市皇女・弘文天皇皇后 ・父:天武天皇 ・母:額田王 ・夫:大友皇子 ・子:葛野王 672年:大友皇子、弘文天皇として即位、十市皇女、皇后に 672年:壬申の乱、夫(大友皇子)対父(大海人皇子) 679年4月7日:十市皇女薨去 天武天皇と情熱的な歌人額田王の間に生まれる。 壬申の乱のとき、夫(大友皇子)対父(大海人皇子) という状態に置かれる。そのため、吉野にいる父に知らせるため 鮎の中に手紙を詰めて送っているという噂を立てられる。 夫、大友皇子亡き後、大海人の子ということで命は助かる。 天武天皇7年、斎宮として選ばれ、いざ出発という時に急死。 自殺ではないかという疑いもある。 斎宮として伊勢にはすでに大伯皇女がおり、 すでに結婚して葛野王という子があるにも関わらず 斎宮としてなぜ選ばれたのか。 その理由として三輪山に奉仕するためではないかとする説もある。 天智系の大友皇子、天武系の十市皇女の間に生まれた 葛野王はかなり微妙な位置に立つことになった。 後に持統天皇の後継者を決める時に葛野王が 正統な皇位継承者として珂瑠皇子を推した話がある。 それはきっと皇位継承争いがいかに嫌なものか 両親の生き方を見てきた葛野だからこそ 言えることだったのだろう。 |